これは三十代半ばの男性、永井さんの話である。
永井さんはシステムエンジニアとしてフリーランスで働いている。取引先や顧客と打ち合わせをするさい、現在はリモート会議という形態を取ることもあるが、コロナ禍前までは相手先に出向くというのが当たり前だった。
出張の滞在先として選ぶのは安価なビジネスホテルが多かったが、稀に贅沢をしてそこそこ立派な旅館に泊まることもあったという。
以下はそんな頃の話である。
その日に宿泊した旅館は古色を帯びてはいたものの、清潔な状態が保たれていた。どこも掃除が行き届いており、部屋の備品も真新しくて綺麗だった。
山間に建つその旅館は川魚中心の夕食をウリにしており、焼魚に加えて刺身もだされたが、川魚にありがちな生臭さはいっさいなかった。山菜を用いた他のメニューも、素朴な旨さがあって好ましかった。
永井さんは夕食を食べ終えると温泉に入り、それから部屋でビールをちびちびやった。
時刻は午後十一時を少し過ぎていた。
テレビを観るともなく観ていた永井さんは、奇妙な音がしていることに気がついた。
ペタ……ペタ……
音が聞こえる部屋の出入り口に目を向けた。誰かが部屋の外、板張りの廊下を裸足で歩いている音らしい。
足音は部屋の前を右から左へゆっくりと通り過ぎると、そのまま徐々に遠ざかっていき、最後は完全に聞こえなくなった。
他の部屋に宿泊している客だろうか。
永井さんは特に気に留めなかったのだが、数分後にまた同じ足音を廊下に聞いた。
ペタ……ペタ……
今度は進む方向が逆だった。足音は部屋の前を左から右へゆっくりと移動していく。
さっき部屋の前を通った宿泊客が戻ってきたのだろう。永井さんはこの時点でも、足音を気にしていなかった。
ところが、しばらくしてまた同じ足音が聞こえたのである。
ペタ……ペタ……
板張りの廊下を裸足で歩く足音が、引き戸の向こうに聞こえる。
その後も裸足とおぼしきその足音は、何度も部屋の前を通り過ぎた。
ペタ……ペタ……
右から左へ、左から右へ。
ペタ……ペタ……
廊下を行ったり来たりして、なにをしているのだろうか。だんだん足音が気になりはじめた永井さんは、足音が部屋の前を通り過ぎた直後に、引き戸にそっと近づいて数センチだけ開けてみた。
どんな人物が足音を立てているのか、なんとなく確認してみたくなったのだ。
ところが、引き戸を開けた途端に、なぜか足音はぴたりとやんだ。
引き戸の隙間から部屋の外を覗き見ると、薄暗い廊下に誰かがいるようすはなかった。
どうしようかとしばらく考えたのち、永井さんは思い切って廊下に出てみた。すぐに左右を確認したのだが、人の姿はどこにも認められない。廊下は左にいっても右にいっても、少し先で直角に曲がっている。足音の主はもう廊下を曲がったのかもしれない。
などと推し量りながら部屋に戻った永井さんは、数分後にまたも廊下を歩く裸足の足音を聞いた。
ペタ……ペタ……
今度も足音が通り過ぎた直後に、引き戸を数センチだけ開けて廊下を覗いた。だが、途端に足音はぴたりとやんで、誰かがいるようすはなかった。廊下に出てみて周囲を確認してみても、やはり人の姿は認められない。
足音の主をどうしても知りたい。半ば意地になってきた永井さんは、足音が聞こえるのを部屋の中で待った。今度は最初から引き戸を少しだけ開けておき、足音が通り過ぎる瞬間を見てやるつもりだった。
やがて、足音が遠くから聞こえてきた。
ペタ……ペタ……
板張りの廊下を裸足で歩く足音が、右手側からゆっくりと近づいてくる。
永井さんは引き戸の隙間から薄暗い廊下にじっと目を凝らした。
ペタ……ペタ……
足音がもうすぐこの部屋の前を通る。永井さんはじっと廊下を見据えていたが、その視界がいきなり真っ暗になった。まばたきをして目を閉じた瞬間に、瞼が動かなくなったのだ。
また、固まったのは瞼だけでなく、手足もまったく動かなかった。つまりは座った姿勢のまま、金縛りにみまわれたのだった。
金縛りを経験するのははじめてだった。息が詰まるような圧迫感があり、生ぬるい汗が頬につたうのを感じる。
その間も足音はゆっくり移動していた。
ペタ……ペタ……
金縛りで視界が遮られた影響なのか、足音がやけにはっきり聞こえた。
ペタ……ペタ……
部屋の前を右から左へゆっくり過ぎていく。
なおも金縛りは続いていた。視界は戻ってこず、さらに息が詰まる。
ペタ……ペタ……タ……
やがて足音が完全に聞こえなくなったとき、固まっていた瞼がいきなり開き、同時に手足も動くようになった。
金縛りが解けたのだ。
永井さんは反射的に引き戸を閉めて、詰まっていた息を思いきり吸いこんだ。
強く吸い込みすぎたせいで、ひどく咽せ返ってしまった。咽せながら強い恐怖を感じていた。
あの足音を立てていたのは、きっと生身の人間ではなかったのだろう。見てはいけないものだったに違いない。
咽せ返っていた息が落ち着いても、恐怖が首筋にひんやりと残っていた。
翌朝――。
四十代後半ばとおぼしき仲居が、朝食の準備で部屋にやってきた。永井さんはその仲居に昨晩の出来事を伝えて、言葉を濁さずに思い切って尋ねてみた。この旅館に霊が出るかどうかを。
仲居は朝食の膳を運びながら、永井さんの問いを否定した。だが、否定の仕方がぎこちなかったため、しつこく尋ねてみると、仲居はおずおずと話をはじめた。
「先々代の女将のことなのですが……」
ある年の夏に旅館の周辺地域で何度も大雨が降った。大雨によって地盤が緩んだのが原因だったのか、旅館からさほど遠くはない場所で大規模な土砂崩れが発生した。
五十代半ばだった先々代の女将は、その土砂崩れに巻き込まれたのだという。
「巻き込まれた経緯は私も存じておりませんが、女将は両足にひどい怪我を負ったそうです」
女将の両足は怪我の影響によって壊死しはじめた。現在であればほかに方法があったかもしれないが、当時の医療技術では両足を切断するほかなかった。
「足を失ったのがショックだったのでしょう。女将は足の切断後に心を病んだと聞いております」
当時の女将の家族は旅館に住みこんでおり、一階に彼女らの住む部屋が設けられていた。女将と支配人である夫、それからふたりの娘がそこに住んでいたそうだ。
両足を失ったうえに精神を病んだ女将は、旅館の仕事から離れて部屋に閉じこもった。だが、ときどき部屋から抜けだして、旅館の中を徘徊していたのだという。
「両足を失っておりますから、這うようにして徘徊していたそうです」
徘徊する理由は特にないようだった。精神を病んでしまった女将は、意味もなく、ただただ旅館内を這いまわっていた。
そんなことが一年ほど続いていたある日、女将が旅館の厨房で自殺を図った。真夜中に包丁で頚動脈を切り、発見された朝にはもう冷たくなっていた。
「それからときどきあるのですよ。永井さまが経験されたような奇妙なことが……」
永井さんは昨晩のことを思い返した。
あの足音。
ペタ……ペタ……
板張りを歩く裸足の足音だと認識していた。だが、それは勘違いだったらしい。両足を失った女将は廊下を這うさいに、板張りの床にペタ……ペタ……と手をついていた。
あれはそういう音だったのだろう。