ベルはトーマスを伴い、職員室へと入る。そこは机と机がくっついて並んでいる。今は授業中のため、先生たちのほとんどが出払っている。だが、それでも3人の先生がいた。
そのひとりが席から立ち上がる。それだけではない。ベルに対して、異様な威圧感をいきなり放つ。ベルはニヤリと口角を上げる。
ベルは着物姿の白髪白長髭の老人と向かい合う。先に口を開いたのはベルの方だった。
「もう80歳だろ? セキシュウサイ先生よぉ?」
「ほーほほっ。先生ではなく、会長だよ、今や」
セキシュウサイが手で白長髭を撫でおろしている。ベルはわざとらしく興味深い顔をする。
「へぇ……。偉くなったもんだね? とっくの昔に隠居したと思ってたよ」
「34歳にもなって、冒険者訓練場の校舎を壊す馬鹿がおるんじゃ。隠居してる余裕をなくしてるのはどこのどいつじゃ? おーん?」
売り言葉に買い言葉とはまさにこのことであった。ベルとセキシュウサイは互いに殺気を放ち、それをぶつけ合う。ピリピリとした空気が職員室に漂う。
2人が発する殺気だけで机の上にあったガラスのコップがカタカタと音を鳴らして振動する。殺気の間に挟まれたコップがパリーンと盛大な音を鳴らして自壊した。
先生は他に2人いるが、命の危険を感じて、職員室から飛び出していく。ベルはその先生たちの逃げる姿を目で追い、その後、セキシュウサイへと視線を戻した。
「ふんっ。この程度で逃げ出すとは……なってないねえ? 鍛え方を間違えたのかい?」
「ほざけ、小娘。わしとおぬしが規格外なだけじゃわい」
ベルはそれをわかっていながら、挑発してみせた。ここに来る途中、教室を廊下から覗いていた。その過程で、先生の方もチェック済みだ。
ベルの見立てとして、冒険者訓練場の先生たちは現役時代には立派な経歴持ちだと想像させるにふさわしい立ち振る舞いをしていた。
甥っ子を預けるに値する先生たちばかりだ。
しかし、それでもだ。かつて、自分を指導してくれたセキシュウサイから殺気を放たれている。彼は自分を歓迎してくれている。ならば、自分も殺気を放って挨拶をしなければならない。
職員室の机と壁が悲鳴を上げていた。殺気のぶつかり合いだけで、そのような現象が起きてしまう。
「おう、小娘。外に出ろ。ここじゃ、職員室が壊れる」
セキシュウサイが親指で外に出るようにと促してきた。ベルはニチャァと口を歪ませる。
「くくっ! 20年経っても相変わらずだねえ? セキシュウサイ先生よぉ?」
「甥っ子のレオンちゃんの前で恥はかけぬじゃろ? 校舎裏に来てくれるかい?」
頭の中で太い糸が切れた音が聞こえた。こめかみに太い血管が浮き立つ。
「ああん!? 80歳のじじーに負けるとでも言いたいのかい!?」
「ほーほほっ! 34歳の小娘など、赤子の手を捻るようなもんじゃい!」
歳相応の態度から、ほど遠い2人であった。ベルは甥っ子の名前を出されて挑発されることに我慢ならなかった。ぎったんぎったんにしてやらねば、気が済まない。
「校舎裏? 寝ぼけたこと言ってんじゃねえよっ。決闘と言えば、校庭に決まってんだろうが!」
ベルが顔を突き出し、セキシュウサイの顔に近づける。もちろん、睨みつけながらだ。セキシュウサイも負けじと、目をぎらつかせている。そんな彼がふと、ベルから視線を外す。
何も言わずにひとり、先に職員室から外へと出る。彼の向かう先は校庭であろう。ベルは「ちっ!」と盛大に舌打ちする。
「ベル様……。手加減できるのですか?」
トーマスが困り顔でベルを見つめてくる。ベルは一度、天井を見る。後頭部をぼりぼりと手で掻く。
「わかってるよ。殺さない程度に痛めつける。あっちも死ぬ気はないはず……だよ」
「それなら良いのですが……。でも、なんでまた、セキシュウサイ様はベル様にあのような態度を?」
トーマスが不思議だという表情になっている。ベルは肩をすくめる。
「大方、死に場所を求めてるんだろうよ。生涯、現役をうたってたんだ。それが今更、畳の上で死ねるかってことだろうよ」
ベルはセキシュウサイと交わした言葉を思い出す。彼は会長になったと言っていた。何の会長かと言われれば、それは冒険者ギルドの会長であろう。代表のさらに上にある役職だ。
そんな偉い立場になったヒトが今更、ダンジョンに潜ることなど、ありえない。
それこそ、この世界に魔神や魔王レベルの存在が現れた時くらいしか、会長が現役として最前線に立つような出番がやってくることはない。
「ちっ! 挑発に乗ったあたしが悪いんだ。ここは大人しく、セキシュウサイ先生に付き合ってやるよ」
◆ ◆ ◆
ベルはようやく動き出す。セキシュウサイが待っている冒険者訓練場の校庭へと向かう。上ってきたばかりの階段を降り、正面玄関へと向かう。正面玄関にはすでにヒトが集まっていた。
「おい! 会長がやり合うって聞いたんだけど!?」
「ほんとー!? でも、相手って誰なの!?」
騒がしい生徒の間を抜けて、ベルとトーマスが正面玄関から外へと出る。広い土のグランドが見える。そのど真ん中でセキシュウサイが着物の上着を脱ぎ捨て、準備運動をしている。
(やる気満々じゃねえかよっ! 本当に80歳なのか!?)
ベルは悪態をつきながら、校庭へと足を踏み入れる。ハイヒールのかかとが土のグランドに突き刺さって、邪魔に感じた。
いったん立ち止まり、ハイヒールを脱ぐ。それだけでは足りぬと、ストッキングも脱ぎ去った。それを隣に立つトーマスに手渡す。
「ハイヒール姿でも、圧倒できるのでは?」
「足がつんのめったら、やりすぎる……だろ?」
トーマスが「ふっ」と笑ったのを目にする。それに合わせて、ベルは微笑んだ。
セキシュウサイは決闘のつもりで、ベルを校庭に呼び出した。しかし、ベルは試合のつもりだ。セキシュウサイを殺すつもりはない。
スカートは冒険者訓練場に向かう最中にスリット状に裂け目を入れた。黒の上着はこちらの上半身の動きを制してくれるだろう。ちょうど良いハンデだ。このままの恰好で行くことに決めた。
「ほほう? 舐められたものじゃわい。準備運動も要らぬのかい?」
セキシュウサイの剥き出しの上半身から湯気が立ち上っていた。薄っすらと流れる汗で彼の身体は美しく輝いていた。
「こちとら、常在戦場さ。昨日の夕方まで戦場で暴れてたんだ。準備はとっくにできてる」
ベルは肩を大きく回す。ゴキゴキと骨が鳴る。これだけで準備OKだ。会長とベルの戦いをひと目見ようと、ギャラリーも集まり出した。
ベルは観客たちの方へと視線を向けた。その中に甥っ子がいるはずだ。ベルの目に育ちの良い金髪の坊やが映った。その坊やは甥っ子だ。
「ベル叔母様! どうして!?」
甥っ子は目を皿のようにしている。ベルは苦笑するしかなかった。
「ああー。なんかしらんが、喧嘩を吹っ掛けられた」
「そんなー!? セキシュウサイ会長は80歳ですよ!? ベル叔母様だと、殺しちゃいますよ!?」
さすがは自慢の甥っ子だ。どちらが勝つか、わかっているようだ。ベルは甥っ子に心配かけまいと、大きく手を振る。
「まあ、安心しろって。30秒で決着つけるからさ」
ベルは視線を甥っ子からセキシュウサイの方へと向けた。だが、先ほどまでいた位置にセキシュウサイはいなかった。
(ちっ! 油断しすぎたか!?)
セキシュウサイは兵法者だ。誇りこそ誉れとのたまう武人とは違う。勝つためなら、どんな手でも使ってくる。
ベルは頭を上下左右に振り、セキシュウサイを探した。見つけた。彼はベルの右側にいた。何もない空間を両手で握っている。
ベルの目には、はっきりと見えた。セキシュウサイが刀を握っている。見えない太刀を大きく振りかぶり、それを振り下ろした。
「ヤギュウ流奥義・無刀斬り!」
空気の塊がベルを襲う。ベルは両腕をクロスさせて、セキシュウサイが放った斬撃を防ぐ。ドレスの裾がはじけ飛ぶ。
それだけではない。ベルは空気の塊に押される。土のグランドに2本の線を描きながら、どんどん後退させられてしまう。
「うおりゃぁ!」
ベルは両腕を高々と振り上げた。見えない斬撃を後ろ斜め上方向へと放り投げた。見えない斬撃が校舎の一部を破壊してしまう。
「うぉい! なんでいきなり奥義を出してきてんだよ! そこは順番ってもんがあるだろうが!」
「馬鹿を言うでないっ! おぬし相手に手加減なんぞしたら、こっちが一瞬で倒されるわい!」
ベルは思わず大笑いした。セキシュウサイが取った位置は、ベルが決して、そこから動けないことを計算していた。ベルが斬撃を躱せば、ギャラリーたちと一緒にいる甥っ子にそれが当たる。
ベルもそれがわかっていたからこそ、甥っ子の盾となった。
(これだから、兵法者という奴は大嫌いだ)
だが、同時に兵法者であるセキシュウサイには感謝している。
ベルは仕えるドレッド王から散々に嫌がらせを受けた。それでも、今、ベルが生きているのはセキシュウサイの教えがあったからこそだ。
「感謝してるぜ、先生……」
「ほーほほっ! ならば、もうしばらく付き合ってもらうぞ! ヤギュウ流奥義・無刀斬り!」
セキシュウサイが二度目の見えない斬撃を放ってきた。もちろん、ベルがそれを躱さないという前提でだ。ベルは右手を大きく開き、見えない斬撃に張り手をぶちかます。
力と力が均衡する。ベルは奥歯を噛みしめる。少しでも気を抜けば、斬撃が右手を両断する。それほどの威力と切れ味が込められている。右手を軽く捻った。見えない斬撃を鷲掴みにする。
「ちぇりあああ!」
右手にあらん限りの力を込めて、握り込む。右腕の筋肉が膨張し、ドレスの一部が弾け飛ぶ。ベルの腕先が露出した。
その右腕を高々と天へと振り上げた。右の
「ふんぬおらあああ!」
衝撃波が巻き起こる。亀裂が走る。それはセキシュウサイへと向かっていく。彼は地割れに飲み込まれそうになり、その場から跳躍した。
「もっと鍛え直してくるんだなっ!」
ベルは一度、ひざを曲げる。ジャンプするためのエネルギーを両足に込めた。地面を蹴る。地面が穿たれ、土が舞う。
ベルは風のような速さで飛んだ。未だに空中にいるセキシュウサイに一瞬で肉薄した。
「ぬおぉ!?」
セキシュウサイがでたらめに腕を振り回してきた。だが、力が込められていない斬撃にビビるベルではない。開いた右手でセキシュウサイの顔面を鷲掴みにした。
「まだ続けるかい?」
ベルは両足を地面につけて立つ。右手でセキシュウサイの顔を鷲掴みにしたままだ。
セキシュウサイはこちらの右腕を何度も手刀で叩いてくる。その度にベルの腕先から鮮血が飛び散った。
「なら、こっちで勝手に決着をつけさせてもらうよっ!」
ベルは土の地面にセキシュウサイの後頭部を叩きつけた。セキシュウサイは身体をぴくぴくと細かく痙攣させていた。
そこまでして、ようやくベルはセキシュウサイの顔から右手を離す。
「まったく……。歳を考えろってんだ」
地面の上で大の字になっているセキシュウサイを見下ろしながら、ベルは手でドレスを整える。
そして、疲れた……とばかりに首を捻って、ごきごきと骨を鳴らす……。