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甥っ子との幸せな朝の時間を過ごしたベルはその後、寝室に入り、ゆっくりと寝る。しかし、2時間もしないうちにトーマスによって叩き起こされた。
「なんだよ……そんなに慌てて」
「大変です、ベル様! レオン様の部屋を掃除していたら、とんでもないものを発見しました!」
何をそんなに慌ててるのかと訝しげな顔になってしまう。エッチな本だったら、何も言わずに勉強机の上に置いておけばいい。
甥っ子は14歳なのだ。そういうのを隠し持っていてもおかしくない年頃だ。ふわあ……と大きなあくびをする。
もう1度、布団にくるまろうとしたが、トーマスはそれを許してはくれなかった。
「二度寝してる場合ではございません! これを見てください!」
「なんだよ……。えっ!? 授業参観!?」
トーマスに手渡されたプリントを見る。そこにはデカデカと授業参観と書いてある。真の問題はそこではない。日付の部分だ。本日、午前10時から始まるのだ。
甥っ子は何も言っていなかった。だが、それは今はたいした問題ではない。寝室の壁に掛けてある大きな古時計に目を向けた。
「ちょっと! 今、9時半じゃないの! 今から支度して間に合うのかい!?」
「間に合わせますとも! さあ、早く起きてください!」
トーマスに促され、ベッドから飛び起きる。勢いが良すぎて、ベッドの土台の骨が折れた音がしたが、気にしている余裕などない。
トーマスと共に化粧室へと入る。トーマスが急いで化粧を施してくれた。次に授業参観にふさわしいドレスを選ばなければならない。時間は無情にも過ぎていく。
「どれが良い? あたしとしてはトレードマークの真っ赤なドレスが良いんだけど」
「目立ちすぎるのはいけません。紫ではいかがでしょうか?」
「紫は……おばさん感が強すぎないか?」
「そう……ですね。では、赤を基調にしたこちらはいかがでしょうか?」
トーマスが選んでくれたのは赤のワンピースタイプのドレス。その上から黒の上着を羽織る。ベルトは黒でバックルは金だ。
「さすがトーマス。これでいこう!」
「では、こちらに合わせて、髪型を考慮します」
甥っ子を見送った後、そのまますぐにベッドへダイブした。そのせいで、朝セットした髪の毛はグチャグチャだ。
ワックスを塗っていたために大惨事となっている。一度、湯で髪の毛を洗ったほうが良いのかもしれない。だが、湯を浴びている時間など、あるはずがない。
「少々、荒業で行かせてもらいます!」
鏡越しに自分の後ろに立つトーマスを見た。彼の指の爪が伸びていく。さすがは元吸血鬼だ。肉体操作の力は健在だ。
爆発してしまった髪の毛を櫛で丁寧にとかすくらいならば、伸ばした10本の爪で無理矢理にでも、それらしい髪型にセットしたほうが早いのであろう。
トーマスの指の動きは滑らかでありながらも、素早かった。からまったスパゲッティのような赤い髪の山をあるべき姿へと変えていく。まさに神業であった。
「ふぅ……。キャバクラに勤める女性がよくする髪型になってしまいましたが、それは不問にしていただきたいです。あとはウィッグでごまかしましょう」
「ありがとさん、トーマス。何か褒美を考えとくわ」
「いいえ、そんなものは要りません。レオン様の喜ぶ顔を想像するだけで、十分でございます」
「そうか。じゃあ、一緒に授業参観に行こう」
トーマスが目を皿のようにしている。さらにはおろおろとしだした。何か不都合があるのかと、こちらのほうが困ってしまう。
「いやなのかい?」
「いえ……。ヒトが多い場所に行くと、吸血鬼の
「そんときゃ、あたしが殴ってでも止めてやるよ。ほら、行くぞ」
トーマスが遠慮しているのを余所に彼と共に屋敷の外へと出る。今日は良い秋晴れだ。授業参観が始まる時間があと5分でなければ、この秋空をゆっくりと眺めていたい。
トーマスを肩に担ぐ。さらには履いたばかりのハイヒールをトーマスに預けた。トーマスはグレート・ソードに比べれば、羽のように軽い。
屋敷から冒険者訓練場まで歩いて20分のところだが、トーマスを担いで走っても3分で到着できる。
「舌をかまないように注意しときな?」
「はい!」
トーマスが身体に力を入れたのが腕を通して伝わってくる。ニヤリと口角を上げる。目はまっすぐに冒険者訓練場の方へと向ける。
一度、目を閉じた。そこまで辿りつくイメージを脳内に浮かべた。
(ここからただひたすら真っ直ぐだ。邪魔な家は飛び越えればいいのさ!)
再び、目を開けたと同時に走った。風切り音が鼓膜を激しく刺激する。走っている途中、目の前に飛び出してきた子供がいた。
「びっくりさせて、ごめんよ!」
その子供は眼下にいた。予定よりもずいぶん先でジャンプしたが、助走は十分だった。この分ならば、屋根の上に着地できる。
前髪代わりのウィッグを右手で抑えながら空中を進む。足の裏が屋根の瓦を粉砕した。足が埋まる前に次の一歩を踏み出す。ばきばき! と盛大に瓦を粉砕しながら、屋根の上を駆ける。
屋根の終わりがすぐにやってきた。その端でジャンプする。その時、ビリっという音がスカートから聞こえた。手刀でその裂け目をスリット状になるよう切り裂いた。
次の屋根へと到達した。そこでも瓦を粉砕しながら走った。向ける視線の先には冒険者訓練場の建物が見えた。
(ここまで1分30秒。順調だ……。次のジャンプで屋根の上の散歩は終わりだ!)
ジャンプを3回繰り返し、石畳の道路へと着地した。衝撃で街路樹がへし曲がった。だが、それに目をやっている余裕はやはりなかった。それよりも進行方向にヒトがいないかを確認した。
(ついてやがる。今日はヒトがまばらだ!)
ラストスパートとばかりに街路を道なりに爆走した。ついに目の前に冒険者訓練場が見えた。授業参観ということもあり、鉄格子の門は開け放たれている。
冒険者訓練場の門を潜る。ガシャーンという鉄が鳴く音が聞こえたが、振り向かなかった。残り30秒。この時間を使って、フルブレーキをかけなければならない。
「トーマス! 授業参観の場所は覚えてるか!?」
「武道館です!」
頭の中で現在地と武道館の場所をリンクさせた。フルブレーキは中止だ。斜め上方向へとジャンプすることで、スピードも一緒に殺す。それが頭の中に思い描いた絵だ。
そのイメージ通りにジャンプした。だが、ジャンプした後、自分のイメージが間違っていたことに気づく。
「ちっ! 計算を間違った! 校舎に突っ込む!」
地面の固さを考慮しわすれた。今までは瓦や石畳であった。固さがちゃんとあった。今、蹴ったのは土の地面だ。エネルギーの半分近くが土の地面に吸われた。
高度が足りない。このままでは正面から校舎の壁にぶつかってしまう。
「ちぇりやあああ!」
仕方ないので校舎の壁を殴って粉砕した。ドゴーンという音が鳴り、校舎の壁に亀裂が走る。だが、ベルのパンチを防ぐだけの固さはそれにはなかった。
壁に大穴が開く。ベルは冒険者訓練場の一室へと着地した。そこにいる生徒と先生が腰を抜かしている。
「すまねえ! あとで謝罪する! 怪我はなかったかい?」
ベルが目視で確認する限りでは、怪我人はいない。ホッと安堵した後、教室のドアを開けて、廊下に出る。
今、自分は冒険者訓練場の3階部分にいる。廊下の窓ガラスの向こう側には武道館の屋根が見えた。
目的地はすぐそこだ。残り10秒。迷っている時間はない。窓ガラスを開ける時間も惜しいとばかりに、頭からその窓ガラスへと突っ込む。
ガラスの破片がキラキラと舞い散る。光が煌めく空間を突っ切り、武道館の屋根へと着地した。あとは、この屋根をぶち破って、下に降りるだけであった。
「ちぇりあああ!」
正拳を武道館の屋根へとぶつけた。屋根の一部が崩壊した。それとともに下へと落下した。
「ふぅ……。到着だ! 間に合ったな!」
「さすがはベル様です!」
トーマスを肩から降ろす。トーマスは床に足をつけた後、こちらに新しいストッキングを渡してきた。ストッキングは伝線だらけであり、みっともない。
トーマスが黒い布を広げて、自分を隠してくれた。その間に素早くストッキングを履き替える。
それが終わると、彼はハイヒールを渡してきた。それを履く。
さらに彼が虚空の先へと手を突っ込み、化粧道具を取り出した。彼は乱れたベルの姿をすぐさま整えてくれる。
トーマスが色々とやってくれてる中、自分はきょろきょろと辺りを見渡す。武道館にいる人々が一斉にこちらを見ている。
だが、こちらとしては甥っ子のみを探している。彼らと視線を合わせる気はない。甥っ子は今まさに組手相手との勝負が始まるところであった。
そんな甥っ子がこちらへ顔を向けている。手を大きく振って、甥っ子に自分の居場所を教える。
「甥っ子ちゃん! ダメじゃないか! ちゃんと授業参観だって、教えてくれないと!」
「えっ!? クリスさん、もしかして、ベル叔母様に伝えてなかったんですか!?」
甥っ子の顔の向きがクリスの方へ向いた。犯人が判明した……。この騒動のきっかけを作ったのは甥っ子の付き人であるオートマターのクリスティーナ・ベックマンであった。
「じ、自分はなんて失態を!? 何故にベル様に伝えてなかったのでしょうか!?」
「おいおい。ちゃんとしてくれよ! もしかして、故障とかかい?」
「わかりま……せん。ただ、朧気ながら覚えていることがあります。ドロっとした気持ちの悪い何かが自分のメモリに蓋をしたという記録が残っています……」
クリスが何を言っているのかはよくわからない。彼女はオートマターだ。何かしらの不具合が起こったのであろう。だが、それは些末なことに思えた。
「不問だ! それよりも甥っ子ちゃん! がんばりな! 叔母ちゃんがしっかり活躍を目に焼き付いておくからなっ!」
「はい! よしっ! がんばるんだ、ぼく! ベル叔母様にいいところを見せるんだ!」