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第4話:天使との朝(1)

 ベルは馬を走らせた。明朝6時頃、ついにボルドーの街へと到着する。馬留所に向かい、乗っていた馬を預ける。ここから屋敷まで徒歩20分。


 背負っているグレート・ソードもついでに預けておく。身軽になった。これならば走って2分で屋敷まで到着できる。


「わかってくれよ、甥っ子ちゃんのためだ。あとで取りに戻るから」


 グレート・ソードの柄に軽く接吻する。その後、宥めるかのように刃の腹を手でさする。


 軽く身体をストレッチし、筋肉のコリをほぐす。


「よしっ! ラストスパートだ!」


 ベルは駆けた。馬に乗っているより、遥かに早い。早朝のボルドーの街で屋台の準備をしている人々が何事かと、こちらを見てくるが、相手をしている余裕は無い。


 全速力で走った。衝撃波が起こる。その影響を受けて屋台が次々と倒れていったが、それはあとで弁償しよう。


 今は一刻も早く、屋敷に到着しなければならない。


 走ること2分。ようやく屋敷の前に到着する。額から滝のように汗が流れ落ちる。それを手で拭って、払い飛ばした。飛び散った汗が朝日を浴びてキラキラと輝く。


 屋敷の扉を開き、広い玄関を進む。年代を思わせる良い造りの屋敷だ。その雰囲気を壊さぬように、黒い燕尾服と白いシャツをそつなく着こなす執事が屋敷の奥から現れる。


「お帰りなさいませ、ベル様。お風呂の準備はできております」


「ただいま。今、帰ったよ、トーマス。気が利くねえ」


「シュバルツ殿から報せはいただいておりましたので。6時頃には到着するだろうと。時間ぴったりですね」


 さすがはニンジャだ。今度、会った時に褒めておこうと思う。トーマスに案内されて、風呂場へと到着する。


 白いバスタブには湯がたっぷりと注がれている。そのバスタブに向かう最中にボロボロになった鎧と衣服を脱ぎ捨てた。


 産まれたままの姿になり、足からゆっくりと湯に入れる。胸あたりまでしっかりと浸かる。その途端、薬草臭さが鼻を刺激した。


「これは薬湯かい?」


 脱ぎ散らかした鎧と衣服を拾い集めているトーマスにそう質問した。トーマスは作業を一時、中断し、こちらに身体を向けてきた。


「はい。なんでも突然現れた司祭の超特大黒魔法を喰らったと、手紙に書いてありましたので」


「シュバルツめ。なかなかに目端が利くな。弟子とは言わずに使用人として雇ってやってもいいかもしれん」


「お戯れを……。シュバルツ殿は武の道の神髄を学びたくて、ベル様を師匠と仰いでおられます」


「そんなことはわかってるさ。でも、あいつは張りつめすぎだ。あのままじゃ、あいつは壊れちまう」


 湯に浸かりながら、ニンジャとの出会いを思い出す。触れるもの全てを斬らんとばかりの刺々しさを持っていた。だから、一発ぶん殴ってやった。


 次の日には体中に包帯を巻いて現れた。そうでありながらも、自分の前でいきなり土下座してきた。


「あいつはほっといても強くなるよ……。だが、あたしみたいに心に余裕を持たなきゃならん。修行の一環として、執事の仕事も学ばせるのはどうだ?」


 改めて、トーマスの意見を聞く。だが、トーマスは首を振る。それが答えであった。やれやれ……と、薬湯に身体を沈める。


◆ ◆ ◆


 薬湯に10分浸かった後、トーマスが持ってきた替えの下着を身に着ける。そのまま、化粧台に向かい、姿見の鏡の前にある椅子に座る。トーマスは自分の後ろに立っている。


 まずは、ちりちりになった赤毛をセットしてもらう。


「ふむ……。回復魔法をかけてもらったほうが早そうですね」


 鏡越しにトーマスの様子を見ていた。赤髪に手を触れつつ、なんともしがたいという雰囲気を出している。


「そんなこと言わずに、頼むよ。甥っ子ちゃんに心配させちまう」


「では、毛先を軽くカットして、ワックスで形を整えましょう」


 トーマスはハサミと櫛を手に持ち、素早く動く。毛玉となってしまった部分をハサミでカットし、さらに長さが均等になるようにしてくれた。


 次はワックス缶を手に持ち、適量を指ですくい上げ、それで髪型を整えてくれる。みるみるうちに見れる顔に変わっていく。


 髪のセットはこれで終わりで、次は化粧だ。まずは軽く化粧水を顔全体に自分の手で塗る。その後、トーマスがパフで軽くパウダーをまぶしてくれた。


 トーマスが短い筆を手に取り、まぶた、目尻、頬に淡い色を付けてくれる。


「唇はどういたしましょうか?」


 唇を指で触ってみる。夜通し、馬で駆けてきたために、かさかさだ。化粧水だけではごまかしようがない。これでは甥っ子に行ってらっしゃいのキスをするのに戸惑いを感じてしまう。


「できる限り、ふっくらさせれるかい?」


「少々、時間をいただければ……」


 トーマスは虚空の先に両手を突っ込み、そこから液体入りの瓶を3つ取り出す。その液体を交互に筆を用いて、ベルの唇に塗ってくれる。最後の仕上げに薄紅色で染めてくれた。


「これでいかがでしょうか?」


 指で唇を触ってみた。先ほどまでのかさかさ感が嘘のように消えている。


「やるじゃない」


「シュバルツ殿では、こうはいきませんよ?」


 思わず苦笑してしまった。執事の矜持を見せつけられた。あのニンジャは手先は器用そうだったが、ここまでの腕になるとは到底、思えなかった。


「わかったよ。シュバルツには別の方法で修行をつける」


 トーマスは無言でコクリと頷いている。そして、ここでの仕事は終わったとばかりに、化粧室から退出していく。


 置いていってもらった白い厚手のワイシャツを着る。アイロンがけがしっかりと為されている。さらに赤いスリムパンツを履く。赤は自分のトレードマークだ。


 立ち上がり、お尻のラインを確認する。


「んーーー。年齢的にそろそろ……。いや、まだイケるはずだ……」


 何度も姿見の鏡でヒップラインを確認する。日々の筋トレで引き締まってはいる。見た目は……。


 今年で34歳。スリムパンツを履くこと自体、歳を重ねるごとにきつくなってくる。


「んーーー。やっぱり、そろそろ、ゆったりしたパンツに……。いや、弱気になるな、あたし!」


 14歳の甥っ子を前にして、若作りしている感をひしひしと感じるが、いつまでも若いと甥っ子に言われたい。


 他の男性にそう言われたいのではない。甥っ子のための若作りだ、これは。姿見の鏡に全身を映し、おかしなところがないか、入念にチェックする。


「よしっ! 身だしなみはOKだ! あとは……甥っ子ちゃんが起きてくるのを待つだけだ!」


 壁にかかっている時計を見た。今は朝6時50分。そろそろ、もう一人の使用人が甥っ子を起こしにいく時間だ。自分は化粧室を出て、そのままダイニングに向かう。


 テーブルにはサラダの盛り合わせが入った木製のボールがすでに置かれている。キッチンではトーマスがせわしなく朝食を作っている。


 椅子に大人しく座って、トーマスを観察する。魔法コンロのひとつに鍋を置き、スープを作っているのがわかる。


 もうひとつの魔法コンロにフライパンを置き、厚切りのトーストを焼いている真っ最中だ。


(あたしも料理したいなあ、甥っ子ちゃんのために……)


 戦闘中の手加減は知っているが、調理の火加減はわからないベルだ。ベルが料理をしようものなら、大量の炭を作り出してしまう。


 だからこそ、黙って大人しくトーマスを観察しているに留めた。


 そこにパタパタとスリッパの音が聞こえる。その音を耳にして、一気に身体に緊張が走ってしまった。


 挙動不審になっていたところ、トーマスがニッコリと微笑んでくれた。そのおかげで少しだけ、緊張感が解けた。


 音の主がダイニングにやってくる。金色の綿菓子のような髪をふわっとさせている。着替えはまだ済んでおらず、パジャマ姿のままだ。幼さの残る顔だというのに、さらにほっぺたを紅潮させていた。


 天使が現れたのかと錯覚してしまうほどだ。


「おはようございます! ベル叔母様!」


 行儀よく、頭を下げてきた。もう、これだけで堪らない。生きてきて良かったと思える。さらに甥っ子が、席に着いた後、こちらをまじまじと見つめてきた。


「ベル叔母様、口紅の色を変えられたんですね……いつもキレイですけど、今日は一段と……」


「うはぁぁぁ……」


「はうはう……。叔母様に見とれて、言葉がうまく出ません。あの、その……キレイです!」


「うぅ! トーマス、助けて! 甥っ子ちゃんに殺される!」


 言葉足らずだが、一生懸命さが伝わってくる。甥っ子の誉め言葉がとてつもなく嬉しい。一睡もせずに戦場から飛んで帰ってきた。その全てが報われる。


 甥っ子が敵兵の血で汚れた魂すらも浄化してくれる。天にも昇る気持ちとはまさにこのことだ。だらしもなく、顔を蕩けさせてしまったが、甥っ子に見られるのは何ら恥を感じない。


「レオン様。キレイだけでは足りません。愛らしいとか素敵のなども使いましょう」


「トーマスさん。すいません、もっと色々勉強しないと!」


「いえいえ。ただ……あえて諫言いたします。レオン様はただでさえ、可愛らしいのです。天使のようなその顔で、女性を褒めれば、それだけで舞い上がってしまうでしょう」


「はい……」


「それと女性を誉めすぎると、色々と誤解や行き違いが起きます。ベル様を相手にもっと練習を積んでください」


「わかりました……」


「レオン様は今や14歳です。このままでは淫魔にドレイン・キッスしてもらうなど、夢のまた夢です」


「もっと頑張ります!」


 甥っ子には夢がある。淫魔にドレイン・キッスをされたい。それによって「飛ぶ!」というのがどういうものなのかを体験してみたい。


 それが原動力となり、冒険者になる道を選んだ。


(くぅ……。淫魔を今すぐ絶滅させてしまいたいが、甥っ子の夢を壊すわけにもいかない。心がねじれるようなこの気持ち……あたしはどうすりゃいいんだ!)


 決して、甥っ子を独占したいという、やましい心から生まれた感情ではない。甥っ子のことを思ってのことなのだ、これは……。


 執事のトーマスを通じて、淫魔がどれほどに危険な相手か、甥っ子に教育している。その一環として、甥っ子に褒めてもらっている。淫魔にも通じるようにだ。


 それは甥っ子に義務感を生むかもしれない。しかし、それでも良い……。


「ベル叔母様……練習とかじゃなくて……。本当におキレイです……」


「うぐあ! トーマス、助けてくれ! あたし、このままじゃ、耐えきれない!」


 淫魔はやはり絶滅させるべきではなかろうかと本気で悩んでしまう朝であった……。

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