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第5話

 ケランに厳しい言葉を浴びせて以来、ケランがアルスカに話しかけてくることはなくなった。しかし、彼の姿を見ない日はない。ケランはいつもフェクスの家の前にじっと立って、アルスカの出勤と帰宅を見ていた。


 アルスカはケランを不気味に思った。それは、フェクスも同意見であった。


 ケランはたびたびフェクスにアルスカについて仲介してほしいと依頼しに来た。フェクスが首を振ると、ケランは烈火のごとく怒鳴り散らした。


 ケランの目は吊り上がり、口の端から泡を吹いた。

 頭を掻きむしり、ぶちぶちと髪のちぎれる音まで響かせる。


 フェクスはその様子を見て、ケランが尋常ではないと思った。


 2人は相談して、憲兵に窮状を訴えることにした。


「なんとかしてください」


 アルスカは憲兵に向かってこう頼んだ。しかし、異邦人であるアルスカを救おうとする憲兵はいない。


 憲兵は「よく話し合って解決しなさい」と鼻の穴を広げて説教をするだけだった。


 その憲兵の顔を見て、アルスカは歯がみした。


 貧しい東方出身のアルスカと、裕福なガラの出身であるケランでは、アルスカの分が悪い。これが、もし彼がか弱い女性であったなら、または彼がメルカ人であったならば、また違った対応をされたのは間違いない。


 しかし、その不平等を叫んだところでどうしようもない。差別というのは差別される側ではなく、差別する側の問題なのだ。アルスカにどうにかできる性質のものではない。


 アルスカは肩を落とした。





「……しばらく、仕事は日が落ちる前に切り上げろ。俺も迎えに行くから」


 憲兵に訴えに行った帰り道で、フェクスはそう言った。彼はアルスカの身を案じていた。いまフェクスはアルスカがどこに行くにしても付き添っていた。

 フェクスはケランの様子をまじかで見たことで、最も強い危機感を抱いていた。

 しかし、アルスカは首を振った。


「それは申し訳ない。それに、そんなに早く仕事は終わることができない。いま、補佐官の中で私が一番翻訳が遅いんだ」


「命とどっちが大事だ」


 アルスカは黙った。彼はどうするべきかわからなかった。安全を優先するならばこのままフェクスに送り迎えを頼むべきだ。しかし、いつまでも気のいい友人に迷惑をかけるわけにもいかないと思っていた。


 また、最後がどうであったにせよ、14年も共に暮らしたケランが自分に対してそこまで無茶はしないだろうという驕りもあった。


「まあ、なんとかなるよ」


 アルスカはなんということはない、と言ったように肩をすくめてみせた。

 フェクスは渋い顔のままであった。


「自衛するよ」

「……はあ……」




 アルスカはその言葉通り、しばらくは自衛にいそしんだ。職場の上司や同僚に頼んで帰りにひとりにならないように工夫し、また休みの日の外出は極力控えた。

 それでも心配性のフェクスは職場への送り迎えを続けたが、人数が増えるほど安心も増す。

 フェクスも少しだけ肩の力を抜いた。


 そうした努力のかいもあって、数日ほどは危うい均衡を保ちつつも何事も起きずに過ぎた。

 ケランは相変わらず遠くからアルスカを見ているが、慣れてしまえばどうということはなかった。



 しかしその均衡はあっけなく崩される。


 数日後のある日、アルスカはひとりで帰路についた。 

 その日のアルスカは朝から咳をしながら仕事をしていて、みかねた上官に帰宅するよう命じられたのだった。


 というわけで、いつも帰宅する時間よりも少しだけ早くアルスカは職場を出た。

 往来には学校帰りの子どもたちの姿さえ見える。

 もしかしたら道中で迎えに来たフェクスと合流できるかもしれない、と思いながらいつもの道を歩く。


(まだ市場が開いているだろうから、今日の夕食は買って帰ろうかな)


 そんな呑気なことまで考える。

 アルスカは完全に油断していた。


 道の真ん中に立ちふさがる人影がある。その人物の顔は逆光で見えない。それでも、アルスカは14年のつきあいでその人影がケランであるとわかった。


「あ……」


 怒鳴りつけて追い払おうとしてしかし、声が出なかった。その人物は異様な雰囲気を発し、ゆらゆらと上体を揺らしている。


 アルスカは無意識のうちに一歩後退した。


 ケランは笑い出す。ケタケタとした無機質な声だ。アルスカの背中に汗が噴き出した。


「なんで、わかってくれないんだ」


 そう言って、ケランは大きく一度揺れた。

 その声はアルスカが知っているものよりもずっと低く、獣のようだった。

 アルスカは嫌な予感がした。それは身の危険を伝える第六感のようなものなのだ。

 アルスカは叫んだ。


「こっちに来るな!」


 絞り出した凡庸な拒絶ん言葉はケランには響かなかった。

 彼はケタケタと笑いながら、ゆっくりとこちらに近づいて来る。


 このとき、アルスカはケランの右手に銀色の輝きを見た。


 それがナイフであると気が付くより早く、アルスカはケランに背を向けて走り出していた。逃げなければならないと思った。脳内では警鐘が鳴り響いている。しかし、恐怖が足の動きを阻害する。


 ――間に合わない。


 そう思った。アルスカはすべてが緩慢に見えた。世界はゆるやかに動き、ナイフを構えたケランの足音が大きく耳に響く。

 アルスカは目をつむった。




 そして次に目を開けた時、彼の目の前には返り血を浴びて呆然と立ち尽くすケランと、その足元に倒れ込むフェクスがいた。


 フェクスはアルスカを迎えに来たところだった。そして、ナイフを持つケランを見て、アルスカを庇って飛び出したのだった。


 アルスカは絶叫した。



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