軍所有の建物を出て、アルスカつぶやいた。
「よかった」
「すぐ決まったな」
隣を歩くフェクスも嬉しそうである。アルスカが無事に職を得たのだ。
「たぶん、死ぬほど忙しいぞ」
「それくらいの方がいい」
フェクスのからかいの言葉に、アルスカは真剣に返した。いま彼は没頭できる何かを求めているのだ。
アルスカの新しい職は翻訳事務官補佐である。
名称のとおり、各言語で送られてくる書類を翻訳する事務官を補佐する仕事だ。軍内の庶務を行う部署に配属されることになる。
アルスカは今日からでも勉強をはじめるつもりでこう言った。
「軍の専門用語が載ってる辞書はないだろうか」
「そんなのあるわけないだろ。実践あるのみだ」
「簡単に言うよ……」
彼らはそのまま市場へ向かって、いくつかの野菜と果物を買い求めた。
途中、アルスカが気が付いて尋ねた。
「ところで、あなたの仕事は? 今日は休み?」
「ああ、今日はいい。どうせ日雇いだ。働きたい日に行く」
その言葉を聞いて、アルスカは思った以上にフェクスの経済状況がよろしくないのを察した。
「……すまない。できるだけ早く一人で暮らせるようにするよ」
「気にしなくていい。部屋は余ってる。異邦人に家を貸す奴を見つけるのは大変だぞ。それより、いくらか家賃を入れてくれれば、そっちの方が助かる」
言われて、アルスカは頷いた。
「わかった。いくらだ? 手持ちで足りるなら、今日にでも払おう」
「今月は友情割引だ」
アルスカは眉を下げた。
「ありがとう」
「いいってことよ」
それから、アルスカは忙殺の日々を送った。
軍の翻訳は、これまで商人の翻訳しかしてこなかったアルスカには難易度が高かった。職場では聞いたことのない専門用語が飛び交い、アルスカは耳を澄ませてそれらを聞き取ってメモに書き留めた。彼は遅くまで職場に残って割り当てられた仕事をこなし、家に戻ってからは書き留めた単語の意味を調べた。ときにはフェクスを教師にすることもあった。
言語とは不思議なもので、かつてアルスカがまだ初級学習者だったころはひとつの単語を覚えるのにも苦戦したが、上級者となると、単語の響きからある程度の意味の予測がつき、するすると頭に入っていく。
アルスカは久しぶりに味わう学びの喜びに夢中になった。
*****
アルスカが仕事に慣れたころ、事件が起こった。
その日、アルスカが何枚かの書類を翻訳していると、翻訳事務官が扉からひょこりと顔を出した。
「アルスカ、ちょっといいか」
呼び出されてついていくと、上官は廊下で窓の外を指さした。そして困り眉でこう言った。
「お前に会いたいって人が来てるぞ。あそこに立ってる奴だ。知り合いか?」
アルスカは指の先を見て、顔をしかめた。しかし、上官前であるので、すぐに平静を装った。
「……まぁ、知らないこともないですがね」
「会ってきたらどうだ? お前、ちょっと根を詰め過ぎだ」
アルスカは嫌々ながら外に出て、その男に声を掛けた。
「なんでここに?」
アルスカの質問に、男は応えない。代わりに頭を下げ、アルスカの許しを乞う。
「アルスカ、俺が悪かった」
そこに立っていたのは、もう二度と会うことがないと信じていたケランであった。
アルスカは首を振った。この悪夢が早く終わってほしいと思った。
「怒ってない。もう忘れた。帰ってくれ」
「話を聞いてくれ」
「聞きたくない。それが用件なら、もう帰ってくれ。私は怒ってないし、もう気にしてない。二度とここに来ないでくれ」
ケランはなおも食い下がる。
「誤解なんだ」
アルスカは急に腹立たしい気持ちになった。彼はこれまで悲しむばかりであったが、ここにきて忘れていた怒りがこみ上げ、止めることができなくなった。
「そうであることを願って、何回も確認して! 調べたんだ! 結果はこれだ! もういいだろう!?」
つられて、ケランも声を荒らげる。
「こんな終わりでいいのか!? ちゃんと話そう! 俺たちは14年も一緒にいたんだぞ!?」
「14年もだまされてたんだ! あなたがそんな人間だなんて気が付かなかった!」
「だましてない!!」
2人は大声で怒鳴り合った。
もっと前、それこそ、アルスカの心が冷めてしまうより前にこうして喧嘩をしたならば、もしかしたら違う未来があったかもしれない。アルスカが泣いて、ケランがその涙をぬぐってくれたなら、またはじめからやり直すという選択肢をとったかもしれない。しかし、現実はそうならなかった。
アルスカはひとりでケランの裏切りを抱え込み、心が擦り切れてしまったのだ。裏切りを裏切りとして責め立てることができない関係しか築いてこなかったのは、アルスカにも責任がある。
だからこそ、傷つけ合わずに終わる道を選んだのだ。
2人は一通り大声を出したあと、肩で息をした。少しだけ頭が冷えた。
アルスカはいつの間にか流れていた涙を袖でぬぐった。
「あの相手の男はどうしたんだ?」
「別れた。遊びだったんだ」
「信じられない」
2人はどこまでも平行線だ。
ケランは弱った声で尋ねた。
「どうするつもりなんだ? この国はお前も知ってる通り、東方の異邦人には厳しいところだ。こんなところで生活できるのか?」
アルスカは強く言い切った。
「どこの国でも、私は異邦人だ」
故郷が焼け落ちてから、どこへ行ってもアルスカは異邦人だ。そして異邦人だからと見くびられるのにも、慣れてしまった。そんなことよりも、今はケランに侮られる方が耐えがたい。
「でも……」
なおも言い募ろうとするケランに、アルスカは言い捨てた。
「もう放っておいてくれ。私たちは終わった」
ケランは肩を落として帰っていった。
アルスカはなぜここがばれたのかと首を捻ったが、よく考えてみると、ここしかないことを思い出した。
アルスカの故郷はいまだに戦火がくすぶり、とてもではないが帰れない。そしてガラで私の知り合いは皆ケランの知り合いでもある。ケランはその知り合いに連絡をとり、アルスカがガラにいないことに気が付いたのだ。
そうなると、次にアルスカが行く国といえば、メルカしかない。
アルスカはため息をついた。それから頬を一度叩くと、彼は仕事に戻った。