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35.豚の退院準備

入院して三十日、ちょうど一ヶ月目にして私の退院日が決まった。


退院日は九日後の三十九日、何とも中途半端な数字であるが…仕方がない。先生から退院日を伝えられると前回の診察の時とは違って不安に襲われる事なく、笑顔で受け止める事が出来た。

ただしこの笑顔は従媚笑適の賜物たまもの。本当の所はめっちゃ嬉しいっ!と言う事はなく、

「やっとか…………」

と低い声でつぶやいて、息が続く限りの長いため息を吐きたい、そんなやさぐれた気分であった。

しかしやっと念願であった“閉鎖病棟早期脱出計画”の“早期”の部分はないものの、達成の見込みがついた事で一安心して胸のつかえが下りた…………と同時に、股からアレが垂れ落ちるのを感じ取る。

アレとは、久しぶりに再会を果たした生理の経血。

色々あってすっかり忘れていたが一ヶ月と二週間遅れの生理であり、ストレスのせいなのか…こんなに生理が遅れた事は初めての経験であった。

股の濡れる感覚を察知した私は、診察終わるとすぐさま自室に用意していた特大四十センチナプキンと生理用パンツを持って、トイレに駆け込んだ。

下着を下ろして便座に座ると血液がぼたぼたと膣から垂れ、落ちて行く。ふと下を見ると便器に落ちている血がレバーみたいな塊になっていて、色こそ違えどまるでウンコのように見えた。

幸いな事に、すぐに気が付いたおかげで下着には一滴も血が付いておらず、私は思わず拳を握って小さなガッツポーズを取っていた。


…退院が決まった時より、喜びで心はたかぶる。

だって、少しでも血で染みると乾いたら落ちにくくなるので急いで洗い流さないといけないし、寝ている時にベットのシーツまで染みてしまったら丸々取り替えなければならないので…要は血の汚れはかなりめんどくさいのだ。

量が多い私は毎月漏らしては洗うのが恒例になっていたので、この漏れない汚れない染みない事はめっちゃウキウキでノリノリになるくらいラッキーな出来事であった。

こりゃあ運が回って来たぞ、と調子に乗りそうになるも油断は禁物と、病院のベットのシーツの上にバスタオルを引いて血漏れ対策を取る。

家で漏れるのはいい、自分自身で処理できるから。だがここは病院、もしシーツを汚してしまえば看護師さんの手間となる…それだけは勘弁と、生理期間中はいつも以上にトイレを訪ねてナプキンを頻繁に交換する事にした。

すでに入院当初から母がナプキンを届けてくれていたので足りなくなる事はなく、足りなくなったとしても看護師さんに買って来て貰えばいい話、なのだが………やはり、それはなんか不本意で……嫌だった。

生理で私自身が大変になるのはいい、自分の体から湧き出る血だ。嫌ではあるが仕方ないと渋々納得は出来る。

しかし、その私の体内の血で他人に迷惑をかけるのはものすごく嫌悪感があった。ウンコも同じで、漏らして嗅覚・視覚・物理的に他人に被害を及ばすのは不本意で不愉快であった。


もし、拘束されていた時になっていたかと思うと、ゾッと肝を冷やす。しょっちゅうオムツ交換はできないので中で血が溜まる事になり、皮膚は下着やシーツと違って丸々取り替え効かず、こびりついた乾いた血は取りづらく何回も看護師さんに拭かさせる………、そんな嫌な想像をつい、してしまう。

最近は生理を大ぴっらにして、恥ずかしくないもの受け入れるべきものとして扱っている事が多いが、その時の時代では大昔よりはマシであったけど、まだまだ隠すべき恥部ちぶと言った雰囲気であった。

だから私は生理、血を晒す事に強い抵抗があるのだと、勝手に自己分析して思っている。

…………しかしながら、いくら時代が進もうとウンコが受け入れられる事はこの先もないだろう、私はウンコにしばし憐れみの目を向けたのであった…。


と、余計なウンコな事をだらだらだらだらと考えながら、私は病院で過ごす最後の九日間を生理と共に過ごして行く。何回も、しかも共同トイレへ行くのは億劫おっくうだったが学校のトイレの行きにくさに比べれば屁でもなく、血漏れの方は残念ながら二日目にして敗北をきっしてしまったがシーツまでには至らず、何とか善戦できたのだった。

そしてその間に私は、ある用事を済ませなければならず、病院から外出許可を貰って病院の敷地内から実に三十七日ぶりの一時的脱出を果たしたのであった。

………………、どうせなら二日後の退院日にこの感動?を味わいたかったが…しょうがない、私にはやるべき事がある。

迎えに来た両親と一緒に病院の駐車場へ向かう間、強い日差しときれいな青空が目に染みて、私は顔に手をかざす。一瞬、自由になれたかと勘違いしそうな陽気であるが、かざしている手首に付いている病院のリストバンドが目に入り、私の平和ボケした頭を冷やしてくれたのだった。



父の車に乗ってやって来たのは、私の通っていた・・専門学校。学校を辞めると決めてからの母の行動は素早く、次の面会時には退学届の書類を持ち込んで早々に必至事項を書かされていた。

そして後はその書類を事務局に提出するだけなのだが、どうしても中退する事について一回会って話をしたいと、母の方に学校から電話があったため、二度と行く気はなかったのに結局病院から抜け出してまで、学校へまた行く羽目になっていた…………、あ〜バカらしい。

だけども、ケリをつけるためだと自分に言い聞かせ、手元にある記入済みの書類のファイルを強く握りしめて、母と一緒に車から降り学校の門へ向かって行った。

職員室を訪ねると、そのまま相談室へと案内される。夏休み明けであったが、ちゃんと授業中を狙って行ったので誰とも鉢合わせする事なく潜入は成功し、担任の先生と入学式以来である校長先生と対面しながら、私は退学届を提出した。

先生二人を目の前にだいぶ緊張はしていたけど、飲んでいる抗不安薬と抗うつ剤のおかげで、心臓も汗も震えもウンコも落ち着き払って常識人ぶる事ができ、メンタルの病気で入院しているので通えなくなったと正直に平常心で伝える事が出来た。

しかし学校側とすれば笑顔でハイそうですか、と言う訳にはいかず…。

「休学と言う方法も…」

大事な収入源の生徒を辞めさせたくないもはよく分かる。だけども、もう私とあの左腕を見た母は学校へ通うと言う選択肢は消していた。何言っても学校を続ける意思はないと分かると、話し合いはたった十分程度で終了。

こんな事なら、郵送で送りゃあ良かったと後悔していると先生から教室に置き去りにしていた私の筆箱とノートが渡された。処分されたもんだと思い込んでいたから、それは思いがけない再会であったが………が、

何だ、死んでいなかったのか…と私は心底がっかりした。

置き去りにした直後は少し気にかけていたものの、いざ生きて再会してみると、ただの嫌な思い出しかない呪いのアイテムでしかない。

形だけのお礼を言ってその呪物を受け取って学校から私と母はそそくさと出て行き、父の待つ車へと戻ったのだった。

これでやっ…………と、手枷足枷てかせあしかせだった学校から解放された。

後部座席に勢いよく座りほっと一息吐息を吐きながらのびのびしたい気分にかられたが、流石に調子に乗っていると思われそうで控えめに、バレないように息を吐いて静かに体を伸ばした。


そして次に車が向かった先は、自分が暮らしていたアパートだ。大方の引っ越しの準備、退去届けなどの色々な小難しい手続きはこれまた両親が手早く済ませていた。

後は家の片付けだけなのであるが…、問題はそこである。

学校を行くのをやめて、引きこもっていたのは一週間以上……その間、ゴミ捨ても片付けも何もせずほったらかしにしていた。しかも、その実態は一週間だけでなく学校に行くのが辛くなってから生活をおろそかにしていたので、実質三ヶ月分の汚れが溜まっていた。

台所の生ごみ、洗濯、トイレの汚物、お風呂の排水溝、…言い表せないぐらいの悲惨な状況であったのを思い返し、恐ろしさに身を震わせながら、アパートのドアノブに手をかけた。

そんな私の目の前に広がった光景は……………、

綺麗な部屋だった。


隅の方にゴミ袋が数個まとめられていて、生々しいくっさい香りは漂ってなく普通の空気が吸えるレベルまで戻っていた。

奇跡が起きたっ!…………なんて訳なく、母が仕事の合間を縫ってせっせと片付けに来てくれていたのである…。頭が下がる思いの私がやれる事と言えば、ほぼ片付け終わった部屋で荷物をダンボールに詰めると言う簡単な作業しか残っておらず、家具家電は備え付けだったので一時間ぐらいで作業も終えてしまい……正直言って、病院での作業療法の方がまだ手を動かしていたような気がする。


そして黙ってりゃあ良かったのに、綺麗に片付いた部屋を見て気分が良くなった私は余計な事を口走ってしまうのだった。

「この筆箱とノートも、一緒に捨てていいよね」

「もったいない!」

母と父にすぐさま、私のゴミ袋を開ける手を止めた。


…やってしまった。


両親はお金がないせいなのか、物が捨てる事が出来ないたち・・なのだ。特に父はそれがひどく、母が捨てようとまとめていたゴミ袋の中から漁って「まだ使える」と戻してしまう事が何回もあったがそれはまだマシな方で、一番酷かったのは台所の三角コーナーに捨てられていた残飯を「もったいない」と口に放り込んでいた事だった。

ガツガツとむさぼる父の後ろ姿を目撃した、私は思った。


豚だ……………。


まるで残飯を漁る卑しい豚のように思えたのだ……、呆然と見ていた私は気付くと嗚咽も込み上げていた。

そうだ豚に何言っても人間の言葉は通じない、と私は無理やり自分を納得させて歯を食い縛る思いで呪物達の引導を両親に託した。…結局のちに、そいつらは何年も使われずに家のペン立てでインテリア化として無駄に命を延命され、ある年の年末の大掃除にてやっとその生涯を終えたのだった。


トランクにダンボールを数個運び入れて、私のやるべき事は済んだ……いや、どうせなら最後に唯一この一人暮らしで快適であったトイレを使って別れを告げたいと思った。どうせならウンコをかましたかったが、残念ながら便意はなくしょんべんで最後の別れを交わして、私はたった四ヶ月住んでいた部屋から去って行った。


後は牢獄・刑務所・家畜場…もとい閉鎖病棟にとんぼ返りするだけなのだが時刻は昼の十二時過ぎ、今日は外でお昼を食べる事になっていた。

「何か食べたいある?」

外食に行く際に必ず聞かれるセリフであるが、この質問に私は小さい頃からまともに答えられた事は少ない。言っても「えぇ〜」と拒絶されそうだし(実際された事もある)、場所は遠すぎないか、高すぎないのにしないと、とか色々考えてしまい答えられなくなっていると、結局痺れを切らした父の選んだ店に決まってしまうオチが常だった。

今回もそう、悩んでいるうちにいつの間にか父の好きなラーメン屋に連れて行かれ、別に好きでも嫌いでもない醤油ラーメンを頼まれて口に入れていた。

だがしかし…久しぶりに舌で感じた強い塩分と化学調味料は、病院の食堂で感じた五芒星の調味料の比にならないほどの強い衝撃をガツンと脳内に与えて、私は夢中で麺と汁とメンマとチャーシューを口の中の頬張って行く。

テンション低かった私がラーメンを口にした途端、突然何かに取り憑かれたように食い始めるので、そんな我が子に母は少し引いていた。父はそんな私の様子には目もくれずにチャーハン・餃子をなど沢山頼んでいた癖して、それに手を付けようとした私には目が付き「醤油を付けすぎるな」と父は文句の方をも付けてきた。

ちなみに父自身はドバドバ醤油をかけまくっている。

うるせぇ、こっちは歩く人間卓上調味料を引退してから塩分に飢えてんだ、と心の中で吠えながら建前は無言でうなづき、父がトイレに行ったのを見計らって、私は醤油漬け餃子を口に無造作にねじ込んで行く。

そんな自分の姿が、かつて目撃した三角コーナーを漁る父とたぶって見え、やはり豚の子は豚だと思いながら塩辛いだけの餃子を頬張り続けた。


そして、そんな塩分と化学調味料に衝撃を受けたのは脳内だけではなくて、私の腹・腸…ウンコも久しぶりのラーメン、餃子に興奮して暴れ始めていた。

また車内でする事はなかったが、腸内でウンコが軽めのダンスをしているので嫌な予感はしていて病院へと戻ってきた途端、ダンスは激しいものへと変貌し急いでトイレに駆け込む、と。


私はウンコを吐いた、上からではなく下から吐いた。


病院食で弱りきった体にいきなりの高カロリー高塩分は耐えらなかったらしい。汚ったない描写であるが、便器に浮いている消化しきれなかったネギがその事を証明している。


結局のところ私は退院二日前にして、ベットとトイレを行き来しながら寝込んでしまうのであった…。



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