もうこれで悪い出来事のピークは過ぎ去った………と思いきや、まだまだ私に強いショックを与える出来事が待ち構えていた。
それは面会時間と共にやって来る。
日曜日の午後、着替えの荷物受け渡しを兼ねた両親との面会時間が訪れて私は数日分の汚れた服が入ったデカ袋を持ち、弱りきった心でヨレヨレになりながら面会室へ向かった…その割に体の方は空気を読まずに比較的健康体で、むしろ下痢体質から便秘体質へ原点回帰しているせいで太ってしまう有様である。
そんなアンバランスな状態で面会などしたくなかったが仕方がない、荷物のため…、ツナ缶のためだっ……!
私は面会室のドアノブに力強く、手をかけた。
実は前の面会時に私は頼んだ荷物リストの中に、ツナ缶、を入れていたのである。
本来、渡す荷物に食べ物は禁止されている。しかしあの、歩く人間卓上調味料事件で一番大手の四番打者マヨネーズを食事に使えなくなってから、私はずっと油を欲していた。
なぜなら水と油の関係とは真逆に、便秘と油は相性バリバリ最強一番であるからだ。油をスプーン一杯、飲み物や食べ物に混ぜるだけでその日はまるでコラーゲンたっぷりのつるんと美肌へと生まれ変わる……、ウンコが。
それはツナ缶の油も同じで、下痢体質になってからは食べる機会は減っていたが、ただ油だけを摂取するよりツナ缶は美味しいしカチコチウンコにも役立つし、まさに一石二鳥の助っ人食べ物である。
ただし気をつけなければいけないのが、最近のヘルシー志向のせいでカロリーが低い、油なしのツナ缶が売っている事だ。スーパーのツナ缶コーナーにはむしろ、オイルなし・野菜エキス入りツナ缶の方が多く売っており、しかもパッケージも似ているので間違えやすい。
実際私は何回も罠に引っかかって、油なしを買ってしまった経験がある。健康にはいいが便秘ウンコには役立たずなので、同じ便秘仲間の人は騙されないように気をつけよう!
もちろん母へ渡したメモには太字でしっかり下線も付けて、油入り!!!と、でっかく書いて強調していたので、多分大丈夫だろう。
しかもちゃんとバレないように、事前に相談をして着替えの服と服の間に隠し入れて受け渡す算段だ。何だか刑務所から脱獄するためにドライバーを忍び込ませているみたいだが……。
食べた後の空き缶はポリ袋に入れ、次に渡す汚れた服の間に隠し入れれば、ゴミとしてバレずに処理できる…これぞ完璧なツナ缶取引だ。
私はツナ缶と言う希望に背中を押されながら、面会室へと入って行く。部屋を見渡すと、母は大きな袋を持って机に座っていたが父はやる事なくて暇なのか、部屋の中をウロウロしては掲示板に貼ってあるポスターを意味もなく眺めていた。
私の顔には見向きもしなく。
…そして私が席に着くと、母の尋問が始まった。
「どう?調子は」
どうもこうも、悪い。
「まぁ…普通だよ」
「ご飯は食べれてる?」
無理やり口にねじ込んでる、ポテチはうまい。
「まあ…ぼちぼちは」
「あっそ!、…この中に服と頼まれてたのはいってるから」
反応の悪い私に腹が立ったのか投げやりな口調と態度で荷物を渡されるも、この中にツナ
そう、余った面会時間は母の独壇場の愚痴タイムが始まるのだった。
「仕事場の同僚が…」「○○さんが…△△さんが…」「叔父さんが…叔母さんが…」
母の愚痴はとめどなく続いて行く。別に会話に参加しなくてもいいが音ゲーのごとくタイミングよく相槌を打たなくてはいけなく…、長い間鍛えられた父と私は普通の人より空返事で相槌を打つのが上手いと自負している。
……思えば、その時だけは父と気が合ったような、気がした。
と、上の空で話を聞き流していると…気になる言葉を母が発する。
「お婆ちゃん、施設に入ったの知ってるっけ?」
「……知らない」
母が言ったお婆ちゃんとは、母方の祖母の事だ。父方の祖父母は遠い所に住んでいるためあまり関わりがなかったが、母の実家は歩いて行ける距離の近さであったため小さい頃は頻繁にお爺ちゃん、お婆ちゃんの二人によく会っていた。
そう、
そのお婆ちゃんが具合悪くなって倒れ認知症まで発症してしまい、実家で同居している母の弟の叔父夫婦が入る施設を血眼になって探している…と言う所まで、専門に通っている時に話には聞いていたのだが。
「でね、この間その施設に面会に行って来たんだけど…」
そう言って母は携帯を掲げ、施設で撮ったお婆ちゃんの写真を私に見せて来た。
その写真を見た瞬間、私はショックのあまり口を閉ざした。
いや、実際は「え…」「何これ…」など、うわ言を発していたかも知れない。ともかく私は衝撃を受け、手に汗をかき頭と腹がグルグルと混乱していたのだ。
何故ならその写真のお婆ちゃんは、施設のベットに両手首をベルトで拘束されていたからだった。そして視線は携帯のカメラの方に向かずに無表情で天井を見つめているその顔は、私と同じだった。
ついこの前まで拘束されて空虚の時間に囚われていた、私と。
…正確には、その時の自分の顔は見ていないがきっと、こんな顔をしていたのだと思う。何もする事が出来ず、何の感情も湧かなくなり、空間を見つめてただ時を過ぎるのを待っている、無の顔をして。
母が施設の人に問いただすと、お婆ちゃんは部屋から出て施設を歩き回るので拘束した、と言う事だったらしい。そんな状況を見て知った母は私の拘束の件もあって、ずっと拘束されているのはおかしいと、叔父夫婦に施設を変えるよう掛け合っている所だと言うが………。
私は思った。多分お婆ちゃんは、死ぬまで拘束されたままだろうと。
だってお婆ちゃんの人生の後半、二十年は拘束されて閉鎖病棟にいたようなものだったからだ。
母の実家に違和感を感じたのは、私が小学校高学年の頃。最初に気づいた違和感は、大きな一軒家なのに祖父母の部屋が奥にある小さな和室だった事だ。二人寝るにしては狭いし、どこか部屋全体が暗くてジメジメして、隅にある小さな古ぼけたブラウン管のテレビが一層暗さを強調していた。
そしてある日、たまたま夕食の時間帯に実家に寄った所、私は知ったのだ。その小さな和室のこたつで祖父母はこじんまりと夕食を食べていて、叔父夫婦とその子供たちは広いリビングの明るい蛍光灯の下でワイワイ明るくご飯を食べている事を。
またある正月明け、家族で実家へ挨拶をしに行き座敷の大きな机みんなでお茶を飲んでいた時だった。
しばらくしていると奥から祖父母が出て来たのだが、座敷の机は定員オーバー。しかしお爺ちゃんは「俺も入れてくれや」と自分で申告した事で何とか間に座る事が出来たが、お婆ちゃんは黙ったまま座る場所もなく、部屋の隅で正座して座っていた。
あの、無の顔をして。
この異様な光景はいまだに忘れられず記憶にこびりついている。
その様子に気づいた私は、疑問と恐怖に襲われる。その事を帰りの車の中で母にぶつけてみるも、
「そうだったの?…可哀想な事しちゃったね」と言うだけで、核心には触れず誤魔化されてしまったのだった。
そしてついに、決定的におかしいと分かったのは祖父母の部屋のふすまに、張り紙が掲げられていたのを見た時。その張り紙には、二人がしてはいけない禁止事項が九ヶ条も書かれていた。
一、ゴミは捨てるな!
二、ガスコンロは使うな!
三、水を出しっぱなしにするな!
四、勝手に冷蔵庫の物を食べるな!
五、外出する時は鍵の確認を二回以上しろ!
六、トイレを流すのは一回、紙も短く使え!
七、夜中のトイレは静かに使え!
八、お風呂に入った後は床を濡らすな!
九、電気をつけっぱなしにするな!
………………強い口調の語尾に太字のマジックで書かれた文言は、より一層その異常さと恐怖を増長させている。
……そう、祖父母の二人は、長年同居している叔父夫婦に虐待されていたのだった。特にひどいのが叔母さんで、言葉の暴力はもちろん、手を出す事もあった。私の母も前からそれを知っていて、何回も抗議をしたが叔母は聞く耳持たずにヒステリーとなり母の仕事場へ文句を言いに突撃して来る出来事もあって、母は口を出すのをやめてしまったのである。
そして私も叔父夫婦と顔を合わすのが怖くなり、薄情にも祖父母と会わなくなっていったのだった…。
本当は身近な人に相談したり市の窓口に電話して相談・通報したり、様々な手立てがあったのに出来なかった、しなかった。まさかその当時は虐待とまでは考えず、ただのいじめ、嫁姑のいざこざ、祖父母にも原因がある、などの軽い言葉に惑わされて、目が盲目になっていた。
私がいじめられた時と一緒だった、精神と体に異常をきたすほどの辛い状況なのに客観的に状況判断できずに、ひたすら我慢していたあの地獄の日々と。
私はたった数年だったが、祖父母はそれを二十年も耐えていた。
その後、お婆ちゃんは編み物など趣味で作った作品を邪魔だと捨てられ唯一の楽しみさえ叔母に取り上げられた結果、何もする事なく一日中狭い部屋でボーッとするだけの日々となり、体を壊し認知症を発症してしまうのだった。
さっきお婆ちゃんの人生は拘束されて閉鎖病棟にいたようなものだと言ったが、それ以上…、いや、例えようがないくらい辛かったのだと思う。
拘束こそはされていなかったが、食事は制限されお金も管理され自由に外も出れず、暴言と暴力を振るわれる日々。やっと、病気になった事で抜け出せたと思いきや、今度はその先で物理的に拘束されてしまうとは…………。
私はグルグルと混乱したまま、面会時間を終えた。母もお婆ちゃんの現状に
あの写真のお婆ちゃんは私そのもの見えて、辛くて虚しくて、どんよりと暗く重い感情が自分の部屋のベットで横になっても無くならず、ずっと渦巻いていた。
私もお婆ちゃんのような人生を送るのだろうか、ずっとここに入院したまま抜け出せないのだろうか、退院できたとしてもこの苦しみから、ウンコから解放される日は来るのだろうか……終わりのない考えがとめどなく溢れて来て止まらない。
しかしながらぐちゃぐちゃした頭になっても私は卑しく、楽しみであったツナ缶を確認しようと袋を開けた。
するとツナ缶と一緒に、またしても私を驚かせる物が入っていた。
それはたくさんの果物だった。
父は青果の仕事をしていて、よくお土産に果物を持って帰って来ていた。だからだろうか、ツナ缶を入れるついでに果物も入れたのだろう、入っていたのはバナナ、ブドウ、みかん…みんな私の好きな果物である。
私はまたまた目から涙が溢れそうになる、ここに入院してからと言うものの随分と涙もろくなってしまった。涙を流しながら、ツナ缶に念願のマヨネーズを直接かけスプーンでがっつき、食後にバナナとみかんを一個づつ贅沢に口に放り込む。
久々の甘味が体に染みて、かつて何も考えずに喜んでお爺ちゃんとお婆ちゃんに会いに行き、二人の部屋のこたつに入ってみかんを食べていた頃を私は思い出した。
そしてまたまたまた涙が流れて行く。
ついでにツナ缶のおかげで、無事にキレイな一本グソもトイレへと流れて行ったのだった。