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30.入院編・トイレデュエット

その出来事・・・が起こったのは三週間目の土曜日。

休日はいつも担当してくれている中年の看護師さんが休みで、土日は毎週違う看護師の人が交代で担当になっていた。


一周目の時はハキハキしている三十代ぐらい人で、二周目は当時ではまだ珍しかった男性の看護師さんだった。そして三週目の今回は、かなり若い女性の看護師さんが担当となり、私は一抹の不安を覚えた。

多分、ほとんどの事で若さと言うのは武器になるだろう、恋愛でも働く事でも体力でも。しかしそれには例外がある………、それは医者と看護師だ。(もちろん他にも色々あるが、今回はこれだけにしておいて欲しい)。

偏見ではあるが一患者としてはやはり、ベテランの人の方が経験がありそうで安心するのが正直な話であった。


「土日休日の担当になります、○○です。よろしくお願いします!」

「ょ、よろしくぉ願いします…」

明るい笑顔に元気な彼女の声と反対に、私は暗い顔に弱々しい声で挨拶を返す。


嫌な予感を感じながら。


挨拶を済ませるとそのまま朝の検温の時間となり、私は脇に体温計を挟みながら昨日の食事量、トイレ回数を伝えた。これは入院した日からおこなっていて、看護師さんは患者の体調チェックのために検温と、前日の食事の量、便の出た回数を毎回患者本人が報告する事が恒例になっていたのだが。

…最近、マヨネーズによる油が摂取出来なくなり再び便秘気味になったせいか、はたまたストレスせいなのかは分からないけど、私は胃が気持ち悪くなってしまい昨日のご飯はあまり食べれなく残してしまった事を伝えたのだった、…すると。


「えー……本当ですか。ちょっと良くないですね…」


予想してなかった反応に私は不安に駆られた。彼女は眉間に皺を寄せながら、手持ちのボードのカルテにペンを走らせている。

自分は元々少食だからと食事の量を少なめお願いしてあるので、余計食べ切れなかった事は確かに良くないだろう。

「い、いや気持ち悪かったと言っても、その日だけでっ、便秘も酷かったせいでっ、それに食事が不味くてっ…」

流石に最後の部分のセリフは言ってないが、私が焦って言い訳をするも彼女の眉間は治る事なく逆に深めて行った。

「分かりますけど、ある程度食べないと体に良くないですからね」

「でも、私は普段から少食で……」

焦るあまり、徹底していた“従順”を忘れて反論してしまった事を私は間抜けにも言った後に気がついた。


「はぁ…」彼女に大きなため息を吐かれる、そして。


「よくそれで、そんなに大きくなれましたね」


言い放った彼女の顔、言葉の抑揚、場の空気感で、私を心配して発している言葉ではなく、明らかな嫌味で言ったのは明白だ。かと言って別に深い意味はなく、ただイライラしたから当たりの強い言葉が出てしまっただけだろう………、それだけの事である。

そう、それだけの事、なのに、それから時間が経って午後になっても気分はモヤモヤとして、何だかスッキリしない。おかしい、朝飲んだ軟便剤のおかげで、腹はスッキリしたのに……何かが私の中でくすぶっていた。



その日の午後の作業療法は、色鉛筆やクレヨンを使って好きな絵を描く絵画の時間だった。気分は良くなかったけど、好きな絵の時間だったので私は少しホッとしながら、壮大で力強い大きな木を描いていった。モデルは散歩ドッグランした病院の中庭の木、しかし絵と違って実際はしょぼくれてしな垂れてる木である。

それを鉛筆やペンを使って主線を描き終わると、私は早速色塗りに取り掛かった。

…すると、あの・・若い看護師さんが近づいて後ろから覗き込んで来た気配がし、せっかく調子に乗って来た手も思わず止まる。

私は食事も勉強も風呂も絵も遊びも、どんな事でも一人でやるし一人が好きであるが、逆にみんなで一緒にやる、集団行動が嫌いだった。周りに人がいるだけならまだしも、特にじっと見られていると…気になるしモジモジソワソワするしとにかく緊張してしまう。


もうしょうがねぇ、腹を括って色鉛筆で葉っぱ部分を大胆に塗り始めた時、彼女が私に話しかけて来た。

「川村さんって美術の専門学校通っていた・・んですよね?」

一応まだ、通っている・・んだが。

「はい、そうですけど…」

私はまた心ないお世辞か、意味のない世間話がやってくるのかと身構えるが、彼女の発した言葉はまた予想外のものだった。


「その割にはちょっと…、あんまりですねー」


……………………、皮肉でも何でもない真正面のド直球で言われたので、私は思わず言葉を飲み込んだ。

腹が立って後ろを振り返って見るも、彼女はただヘラヘラと笑っているだけ。さっきの様子とは違いイライラや強く当たった…とかではなく、何にも考えないで心のおもむくまま発した、と言う感じであった。

私はしばらく間が空いた後、彼女と同じようのヘラヘラ笑いながら「そうなんですよー、私下手なのに何故か入れちゃって…下手の横好きって言うんですかねー」と答えた直後、私の脳内にとある記憶が突如、蘇った。



それは十八年間で一番辛かった時期、高校三年の時の思い出。

少し前に、先生に従媚笑適従順・媚びる・笑顔・適度をして何とか生き延びたと言ったが、それはいじめっ子達にも同様で、このままいじめられていたら本当に殺されてしまうと私は何とかいじめられない方法を考え、あの従媚笑適を実行したのだった。

ただそれは先生に対するよりもっと難しい、いじられキャラという茨の道を歩かなければならない事になる。

どんなにひどい悪い事を言われたりされたりしても、ヘラヘラ笑って反応して、時には自分で自虐しおちゃらけて、そして別に言いたくもない毒舌で自分だけではなく他人をもけなして、やっぱりヘラヘラと笑って間抜けなピエロのようにみんなに笑われる。

そのおかげでいじめは一、二年の頃よりマシになって学校に通えるようになった。…………それなのに、不思議な事に何故か、死にたいと思う回数は格段に増えたのだった。


その記憶が私の脳内に駆け巡る。


あ、ヤバい、と思った時には目には涙が溢れ出て来ていた。こぼれ落ちる前に何とかしなければと、急いで私はトイレへと駆け込む。共同トイレの個室のドアを閉めてこの病棟で唯一、壁がある一人の空間を作った瞬間、私は大泣きした。

数々受けて来た昔の辛い出来事を考えれば、今回の事なんか屁でもないのに…どうした事か涙はとめどなく流れて行く。時折泣いている声が外に聞こえないように、団地のトイレのように再び人間消音ボタン化し、トイレの水を流し続けた。しばらくして、涙がやっと落ち着いたと思ったら今度は赤く腫れた目を引かせるため、またしばらく待たなければいけなくなってしまうのだった。

とりあえず便座に座って落ち着こうと腰をかけた瞬間、何だかこの空間に既視感を覚え、またも私の脳内にとある記憶がよぎる。

もしかしたら今、死にかけて走馬灯そうまとうが見えているのだろうかと期待して体のあちこちを触るもどこも痛くも悪くもなくて、がっかりしながら私は過去を思い返した。


思い出した記憶は高校一年の頃の話。

授業中も私はいつものようにいじめられていたが、その日はいつもよりひどくて、私が授業に集中できないようの悪口を言ったり物を投げたり睨みつけたり、…散々であった。

その頃の私はどんなに辛くても泣くのは一人になった時にしか泣かないと決めていたのだが、これは悔しいから、負けたくないから、屈したくないから、などの強い意志で決めているわけではなく…。泣いてしまうと事態が悪化し、いじめがエスカレートしてしまうので、泣くのは帰り道か家で部屋にこもった時か、とにかく必ず一人になった状況で泣いていた。

がしかし、この時ばかりは我慢の限界で、私は授業終わりと同時に早足でトイレへと駆け込んで、声を抑えてひたすら泣いていた。


思い出したのは、これだけではない。

小学校一、二年の時、私に冤罪と皮剥きを覚えさせた先生との思い出がある。

私は先生の授業で当てられて、黒板にチョークで答えを書くことが末恐ろしかった。間違えたら怒鳴られてみんなの笑い者になるのが怖く、私は授業当てられそうになると思いっきり手を挙げ「トイレに行きたいです!」と、大きな声で高らかと宣言してトイレへと逃げ込んでいた。

学校でよくトイレに行くとバカにされると六話でも言っていたが、それよりもその時は先生の恐怖が遥かに優っていたのである。私はトイレの個室の中で時が過ぎるのをひたすら待つ…と言うサボり行為を繰り返し、案の定先生にバレてこっぴどく怒られて「和香子さんは嫌な事があるとすぐに逃げ出すサボり魔です」と、通知表でこき下ろされてしまうのであった………。


ある時は、ストレスから気持ち悪くなってトイレでうずくまっている事もあった。またある時は、学校で合唱発表会で壇上に立って歌うのが嫌で、トイレに入りこのまま一生出たくないとこもった事もあった(結局出たのだが…)。またまたある時は、積もりに積もったイライラモヤモヤをトイレの壁や和式トイレの洗浄レバーを蹴って八つ当たりをして、晴らせない鬱憤うっぷんを晴らそうともがいていた事もあった。


色んな思い出を振り返ると家以外は、いつも私はトイレに逃げ込んでいた。

あんなにウンコを憎んで八つ当たりして、トイレも最悪な場所だとけなして来たのに…なんだかんだ私はトイレにすがって救われていたのだ。入院してからはウンコへの態度を改めたが、トイレに対しても今までの事を改め敬意を払わなければいけないと、私はトイレへ平謝りに謝ったのであった。

…………側から見ると、便座にペコペコと頭を下げる頭のおかしい奴だが仕方がない、今は他に敬意を表す方法はこれしかないのだ。


時間が経ち、目の赤みと腫れが引いたと自己判断して個室から出ようとするも誰かがトイレに入って来る足音がしたため、鉢合わせになる事を恐れた私はその場に踏みとどまる。ドアの閉まる音を確認し今度こそ出ようとする…、と流水音と共に聞き慣れない音がしてまたも私は踏みとどまってしまった。


「うゔぉ……」


微かに聞こえた音は人の呻き声で、もしかして具合でも悪いのかと思わず身を固くしたが…、よく考えたらここは閉鎖病棟である。

あぁ吐いているんだな、と私は理解した。

そして顔も分からないその人は、ブツを流す音以外に私と同じように人に音を聞かれないように自ら消音ボタン化として一生懸命水を流しているようだった。盗み聞きをして申し訳ない思いつつ、私は勝手に仲間意識を感じ、つい笑ってしまった。

その笑いはヘラヘラでも嬉しさや楽しさから来るものでもない、虚しさから来る自嘲の笑みである。


その笑みと一緒にせっかく引っ込んでいた涙と嗚咽おえつが再び溢れて来てしまって、またまたトイレから出られなくなってしまい、私は顔も分からぬ人との流水音のデュエットを奏でるのであった………。



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