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23.入院編・拘束、オムツ、大きな声

壁を見つめたまま何時間経ったのだろうか…、先生と看護師さんの二人が私の部屋へとやって来た。



そして冒頭の始まり、の場面に移る。



先生から「どうしてここにいるのか?」そう質問されて、私は生まれてから今までのウンコに支配されてきた人生を、所々端折はしょりながら(特に肛門指入れ・オシッコ風呂部分は削った)、年寄りが昔話を語るように長々語ったのだった。

話を終えると先生は長い一息ついて、重い口を開いた。


「和香子さんには、小さい頃からの環境と便秘体質が相まって、排便に対して強迫観念きょうはくかんねん、つまり恐怖を覚えてしまったと思います。それに家族…特にお母さんとの関係と学校でのストレスが引き金になって、うんぬんかんぬんナンタラカンタラ」

先生は私の分析結果を報告してくるも、当の本人はもう聞くのが億劫おっくうで面倒でしんどくて、ほとんど聞き流していた。とにかくそんな話はどうでもいいと、先生の話が一区切りつくタイミングを見計らって、私は「拘束を外してくれないか」と、やっと抗議の声を上げる事が出来たが、あくまで上げただけ。

先生の返答はさっき看護師さんが言った内容とおんなじで、私の症状が落ち着いたと判断が出来ないからまだ外せないと、キッパリ断られてしまった。


「焦らないでゆっくり療養して行きましょう」


そう言われたけれど、果たして全身拘束されて焦らないでいられる人など、この世に存在するのだろうか?


結局その日の診察はウンコ歴史話と先生の分析で終わり、また何も出来ない空虚な時間との戦いが始まる。

何時間も何もせずにベットの上で空間を見つめる事が、本当に療養になるんか?退院出来なくて一生縛られたままなんじゃないか?

暇な時間が続くと余計な事を考えてしまって、益々気がおかしくなりそうだった。

だから私はこの状況で、唯一できるかゆい腕を掻きむしる事と指と唇の皮剥きに専念して気を紛らす事にした。腕は真っ赤になるほど掻き、指の皮の下にある赤い皮膚は見えるまで、唇は血が出ても容赦なく、時間が続くまで永遠に剥いていく。


こうした無の時間にようやくやって来たのは、夕食の時間であった。

看護師さんがご飯を乗せたトレーをベットの机まで運び、自分で食べれるようにベルトを緩ませてスプーンを渡してくれた(箸だと危ないので)。

でもやっぱり手首にベルトがついていると引っかかって食べづらく、口元にご飯を運ぼうとしてもこぼしてしまうのを繰り返してしまい……、気分はまるで下手くそな人形使いに動かされている、操り人形になったかのようだった。

ボロボロの夕食が食べ終わったら出された薬を飲み、ベットのテーブルに洗面器と水を入れたコップを置いて、拘束されたまま歯磨きをし、口をゆすいだら目の前の洗面器に吐き出すので、自分の磨いた後の水がマジマジと見えてしまい気分は最悪だった。

そして看護師さんが去ってしまう前に私は拘束を外してもらって、丸出しの便器に小の方・オシッコを済ませ、再度拘束をしてもらう。

こんな手間なら、食事の時から外したままの方が楽に思えるのだが…拘束の決まりとはよく分からない。


消灯までの三時間、またもや暇で無意味な苦痛に耐えなければならない。ならいっそ、すぐに電気を消して消灯にして欲しいと、私は痛む指と唇を剥きながら思った。


だって何も出来ない時間なんて、暗闇を見つめているのと一緒だから。



消灯後、初めての場所で緊張しているせいか、そもそも慣れてる人などいないが拘束具が慣れないせいか、なかなか眠りにつけなくてトイレに行きたくなってしまった。オムツをしてるとは言え…しづらいし、はっきり言ってしたくないので私は意を決して声を上げた。

「すいませぇ〜ん」

弱々しい声で、手元のベルもリンリンと控えめに音を鳴らす。本当はもっと大きい声で呼ばなければ看護師さんの耳には届かないのだが、消灯後と言う事もあって個室でも周りの患者さんの騒音にならないだろうかと、色々気にしてしまい及び腰になってしまう。

……しかも、私は大きい声を出す事が苦手であった。


原因となったのは私が中学生の時にある。中学校へ登校する道のりは、学校の玄関前に先生達が車を停めている駐車場を通らなければならなかった。

そしてある日の登校中、歩く私の目の前に運悪く校長先生の車が停まってしまい、車から降りて来たしかめっ面の堅物に私は怯えながらも、頭を四十五度下げて挨拶をしたのだが………。

「ぉはょぅござぃます」

蚊が鳴くような声を発してしまった瞬間、私は即座に訪れるだろう死を覚悟した。


校長先生は恐ろしい事で有名だった。フレンドリーで優しいとは真逆の存在、朝の朝礼で話を聞いている生徒の顔と態度が気に入らないと唾を飛ばしながら怒鳴る、そんな事が恒例のヤバい人格者であった。(無論皮肉である)。


その校長にあんな挨拶をしてしまった私は、蚊が容赦なくぶっ叩かれるよう「何だっ、その声は!そんなのは挨拶じゃない!!!」と大声で怒鳴られた。

校長はぶつぶつ文句を言いながら去って行き、残された私は頭を下げたまま固まってしまい、しばらくの間、周りで見ていた生徒達の見せ物となっていた。

強い人なら、負けん気でナニクソと大声を出すようになる事だろう。が、弱い人間の私はその出来事をキッカケに逃げ腰でヤダコワイと大きい声を出す事も聞く事も苦手になってしまったのだ、これを書いている今現在も。

………奇しくも、母も大きな声で返事をしなければ機嫌が悪くなる人である。私はウンコ、オシッコ、生理、肛門、オナラ…に続いて大きな声とも相性が悪かった。



そうこう考えているうちに看護師さんが来てくれたのは、約一時間後。

私は見事にオムツの中にオシッコをする事に成功した。我慢出来なかった私はベットの上で放出させるも、オムツと言う物は一度すると股間周りがグチョグチョになってしまい、なんとも言えぬ気分となる。

オムツ交換の時間は苦痛であった。別にオムツが必要な体ではないのに、赤ちゃんみたいにベットの上で人にモジャモジャのきったねぇ股間をおっぴろげ拭いもらうのが、恥ずかしくて申し訳ないと言う気持ちが重なって、余計に苦痛を助長させた。


その出来事から私はオムツにオシッコするのが怖くなり、水分を極力取らないようにした事で、ウンコが水分不足におちいりお腹で石のように固まってしまったのだった。

水分のせいもあるが、原因の一つには拘束されて一切身動きできない事によるストレスもあるだろう。

私が入院している保護室での一日は、食事、先生の診察、入浴代わりに体を拭かれる(毎日ではなく二、三日に一回)、トイレ、歯磨き、以外イベントがなく、後はベットの上で縛られて無を見つめるだけ。

しかもトイレの小さな仕切りは、している時の下半身が隠れるだけで上半身は丸見えのスケスケ。……つまり、ここで大の方・ウンコを出せば匂いが部屋中にダダ漏れで、その匂いの中で食事をしなければいけない。

そんな環境でウンコを出そうなんて、私には難題すぎたのだ。


…きっと、ウンコも辛いのだろう。


よく考えれば私とウンコ一心同体、今までずっと恨んできた人生だったが、生まれて初めてウンコに同情し変な絆みたいなものを感じていた。



それから私が拘束される事四日間、ウンコはものの見事に一ミリも外へ顔を出さなかったのである。


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