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22.頑張ってね

「川村さん、一番の診察室へどうぞ」


名前を呼ばれた私は固く凝った尻を上げて、母と一緒に診察室へ向かった。精神科の待合室はかなり混雑で、ぎゅうぎゅうのすし詰め状態。

病んでいる人が多いんだなぁ…、とどこか他人事で周りを見ていた。


診察室へ入るや否や、母は興奮した様子で先生に全ての事情を話し出した。最初は穏やかな表情で話をパソコンに書き留め始めた先生も、話がウンコ襲撃事件に差し掛かると、途端に顔をしかめて雰囲気が変わる。

そして決定的だったのは、母が口にした言葉。

「私に自分を殺すように頼んできたんです」

そう母が話した時、明らかに先生のシワが深まりキーボードを打つ手を一瞬、止めた。


母のウンコ娘報告相談タイムが終わると、先生はパソコンから目を離し、真剣な表情で私たちを見つめて告げた。


「和香子さんには、自傷…もしくは自死の危険性があると思います」


そんな事を言われるとは思ってもなかったのか、母は冷や水を浴びせられたように、青ざめた顔で言葉を詰まらせる。

確かに私は、自分で体を傷つけた事もあるし、死にたいとは常に思っている。でも、体を傷つけたのは高校の時に数回だけ、死にたいと言う感情も中学生の頃からぼんやりと心の片隅に存在していて、ウンコほどではないが長い付き合いのある奴だった。

そんな奴が今更、危険だと言われても何だか私は納得しかねない。

しかし、ここで言い返せばドツボにはまる気がして聞き手に徹していると、先生はこう続けた。


「それに今は感情の抑制よくせいが出来ていない状態なので、これからも今回のような事件を起こす可能性が考えられます」


はっきり言って前科があるので何にも反論出来ないが、暴れたのはあのクソ男に対してであって、別に他の人にウンコで襲う気持ちなんてちっともない、と心の中で私は虚しい遠吠えをあげた。

先生はまたも続けて、とんでもない事を言い放つ。

「お母さんが付きっきりで見るのが大変でしたら、しばらく学校から離れて入院療養をしてみるのは…どうですか?」


今度は私が青ざめる番であった。

「そうですね…、入院させた方が……いいですかね」

母はさっきとは打って変わって落ち着き払い、受け応えた。

なんて事だ、先生にそそのかされ母も感化されて入院にノリノリになってしまっている。

この流れはマズイ、何とかして止めなければ………。

「いや、だ、大丈夫です。入院は、しなくても、私、は…」

明らかに入院が必要そうな患者のセリフを、私は狼狽しながら口にしてしまった。そんな私を、先生と母が哀れんだ眼差しで見つめて来た時、あぁもうダメだな、と私は率直に思った。


もう私には入院の道しか残されていない。


結局、入院した方が私のためになると、先生と母の強い勧めに押し切られてしまい、誰も私の話を聞く耳持たずに、トントン拍子で入院への手続きは進められて行った。

診察に来たはずが、そのまま入院の病棟へと直行。母と父は荷物を用意をしに一旦、家へ戻る事に。

母は去り際に、私の両手をがっしり掴んで「頑張ってね」そう私に声を掛けて行ってしまった。


一体、何を頑張ればいいんだ…???


そんな疑問が頭の中でぐるぐると回り続けるが、この入院は頑張らないと生きてはいけないと言う事が、この後すぐに判明するのである。




私が入院する所は、閉鎖病棟へいさびょうとうだった。


閉鎖病棟とは、普通の入院する病練とは違って出入り口には厳重な施錠されていて、患者が自由に出入りできない所である。

案内する看護師さんが、二重のドアロックを解除しているのを後ろで眺めながら、私もいよいよこう・・なってしまったかと淡々と考えていた。

別に精神を病んで入院している人をバカにしている訳ではなく、精神病院しかも閉鎖病棟に入院だなんて、ドラマや映画のような絵空事みたいに思えて、自分の人生には関係ないものだと思っていたのだけれど……。


人間どんな人でも心を病む可能性はある。

私はウンコによって、心を病んでしまった一患者であった。



と、自分自身をそう認識し始めたのだが…案内された部屋を見た途端、私に強い衝撃が襲いかかる。


そこは閉鎖病棟の中でも、患者を拘禁できる保護室という個室の部屋。鍵付きの引き戸に、柵のついたベット、剥き出しの洗面台、小さい仕切りがあるだけの丸出しのトイレ、他には何もない真っ白で殺風景な光景はいつかのテレビドラマで見た、刑務所の独房を思い起こさせた。私が唖然あぜんとしている所に、看護師さんは入院着を渡して来たのだが、なぜか白いショーツも一緒にある事に気がついた。

しかもそれをよくよく見てみると、ショーツなのではなく…………。


大人用の紙おむつであった。


「あ、あの、これって……」

思わず、尋ねる声が震えた。


「基本的にはトイレでしてもらって構わないんですが、直ちに来れない時には間に合わない事があるので…」

来れない?間に合わない?その言葉の意味はベットを見れば、すぐに分かった。

本当は部屋に入った瞬間に、その禍々まがまがしい違和感に気づいていたけれど直視したくなくて、見て見ぬ振りを決め込んでいたのだ。


ベットの柵に繋いである何本もののゴムベルトは、患者を縛りつける拘束具であった。


戸惑う私に看護師さんは拘束具について、色々説明してくれてた。

患者の身を守るために必要な事、トイレをするには大声とベットの手元に置かれたベルを鳴らして、いちいち拘束を解いてもらわなければいけない事、ベットにナースコールは付いてるものの首をくくらないように短くされているので拘束された患者には無意味な装飾品な事、食事する時でも拘束は解かれずに緩めて食べる事、他にも沢山言っていたような気がするが正直、ほとんど覚えていない。

私はあまりのショックによって、頭が真っ白で話を聞く余裕が持てなかったからだ。ついさっき入院する覚悟を決めたと思ったら、まさか今度は映画で見た猟奇殺人鬼のように拘束されていしまうとは思わなかった。


涙が溢れるも、ここで号泣するとますます頭のヤバい奴だと思われそうで…何とか私は堪えた。


看護師さんは慣れた様子でテキパキと、涙目で呆然としている私をベットに寝かせてベルトを拘束していった。ベットに横になったせいで、無情にもせっかく堪えていた涙が目から流れ出て行く。

そして私は、ものの数分で両手足と腰を縛り付けられたのであったが、即座にある問題がぶち当たった。


鼻水がかめないっ…、い、息が苦しい………っ!!


さっきの涙のせいで鼻水がドバドバ発生してしまったため、私の鼻の穴は交通止めで口呼吸する事しか出来ない。だが、手首のベルトは顔をいじる事さえ制限して来る。

いくら何でもと看護師さんに頼んで、鼻をかめるレベルまでベルトを緩ませてもらい、ベットの端にティッシュも置いてもらって何とか事なきを得た。


後は午後の回診があるまで、部屋で休んでいるだけなので看護師さんは去って行った。

休むと言っても、何もする事なくボーッと薄汚れた白い壁を見つめるしか、やる事がない。テレビもなければ、ケータイもない、喉が渇いても自由に飲む事さえ出来ない。

大声と手元のベルを鳴らして、看護師さんに頼めば水を持って来てくれるのだが、何をするにも全てが面倒になった私は、ただ空虚を見つめている事にした。

乾いた唇同士がくっついて、まるで口も拘束されたかのように感じる。


母の言っていた言葉が頭の中でよみがえった。

「頑張ってね」

拘束なんて本人もしくは家族の了承がなければ出来ない、つまり母はこうなる事が分かっていて……、あの言葉をかけたのだ。そう思うと、止まっていた涙がまたも溢れて出て来てしまう。


ぬぐおうとする手と一緒に、ベルトも付いて来るのが物凄く虚しくて…、自分の心まで拘束されているかのようだった。



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