少しだけ時間を戻そう。
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シュバルツは冒険者ギルドで依頼を受けた後、街の住宅街へと向かった。このボルドーの街は冒険者のための区画、ショッピング区画、繁華街、そして住宅街の4区画となっていた。
シュバルツが向かうは住宅街でも富裕層、要は貴族の屋敷がある場所だ。冒険者たちや買い物客たちでごった返す区画を抜けて、閑静な住宅街へとやってくる。
さらにその向こうにある貴族の屋敷が立ち並ぶところまでやってきた。空気が変わったことをむき出しの肌で感じる。政治の世界で戦っている者たちが住む屋敷が立ち並んでいる。
屋敷は他の住宅とは違い、色とりどりのレンガで装飾されている。建築に金がかけられていることは一目瞭然であった。
「えっと……受付のお姉さんが言っていたノワール家の屋敷は確か、この辺りのはずなのだが……」
シュバルツは一度、立ち止まった。受付のお姉さんに手渡された地図を片手に、自分の位置を確認した。どの屋敷も背丈ほどある壁で囲まれている。鉄条垣や、石垣、生垣と屋敷ごとに様々だ。
庶民の個人宅となれば、竹垣が一般的であり、これを見ただけでも、ここは貴族の屋敷が立ち並ぶ場所だということがわかる。
「うむ、道順は間違っていないようだ」
シュバルツは何件かの屋敷の前を通り過ぎ、目的のノワール邸の前へとやってくる。
すると、2人の衛兵がこちらへと注目してきた。赤と白を基調とした制服の上から部分鎧を身につけている。
そして、頭には鉄製のヘルメットを被っていた。さらには手に槍を持っている。これぞ衛兵だと言わんばかりの姿格好をしている。
そんな2人の前に堂々と楓の葉1枚の姿で進み出た。衛兵たちの眉間に皺が寄るのが見て取れた。そこで、依頼書を彼らへと差し出した。
衛兵のひとりが奪うように依頼書を手に取る。こういう手合いのいつも取ってくる態度なので、シュバルツは平然とした顔つきであった。
「これは……失礼しました! どうぞ、中へ」
ずいぶん、物分かりが良かった。自分で言ってはなんだが、変態と指差されてもおかしくない格好をしている。
股間を楓の葉1枚で隠し、顔をニンジャマスクで覆っている。
しかし、これはニンジャマスターの正装だ。この姿を見た衛兵たちは、自分が依頼を受けた人物であることをひと目で理解してくれたのであろう。
衛兵が依頼書をすんなりと返してくれる。さらには道を開けてくれた。シュバルツは屋敷の入り口のドアを開けて、広い玄関へと進んだ。
するとだ、何かの作業をしていたと思われる老執事はこちらを見るなり、その手を止めた。わなわなと身体を震わせている。
「ふっ……そんなに驚くな。依頼を受けて、ノワール家へとやってきたのだ」
「おお……お坊ちゃんが冒険者ギルドに依頼していた件でございますな! 怪訝な顔をしてしまい、申し訳ございませぬ」
依頼書を手渡すと、老執事が依頼書を確認し始める。依頼書とこちらの姿を交互に見ている。確認を終えたのか、姿勢を正して、深々とこちらに向かってお辞儀をしてくれた。
「どうぞ、こちらへ……」
「ありがとう」
老執事に案内されて、屋敷の奥へと進む。廊下にはフカフカの緑色の絨毯が敷かれていた。金持ち特有の毛の長い絨毯だ。その毛が軽く素足に絡みついてくる。
気持ち悪さを感じずにはいられなかった。ただでさえ、嫌な予感がする依頼であるというのに、絨毯から「お前を逃がす気はない」と言われているような気がした。
老執事に連れられて、とある部屋の前までたどり着く。老執事はドアを軽くノックした後、「入ります、お坊ちゃま」と言って、ドアを開き、中へと入っていく。
自分も続いて、中へと入った。そこは応接間であった。背の低い木目調が美しいテーブルが部屋のど真ん中にある。
そのテーブルを囲むように座り心地のよさそうな黒革張りのソファーが並べてある。
部屋の調度品も、この応接間の雰囲気を厳かなものにしていた。だが、明らかにこの応接間の雰囲気をぶち壊している人物がいた……。
「僕のほうが先に好きになったのに! あいつめ……あいつめーーー!」
受付のお姉さんからは、この屋敷までの地図と、依頼人のプロフィールが箇条書きされた紙を渡されていた。
応接間で憤慨している小太りの若者の名はユウナ・ノワールだ。ノワール家の長男にして、現在18歳。そうだというのに、威厳も何もあったものではない。
(普通、貴族の18歳の長男と言えば、もっとしっかりとした空気を纏うものなのだが……)
甘やかされやすい末っ子と言われれば納得できる。だが、目の前で顔を真っ赤にしながら、物に当たり散らしているユウナ・ノワールは、とてもではないが、ノワール家の跡取りにふさわしい人物だとは思えなかった。
端的に言えば「クソボンボン」という言葉がぴったりと似あう。白のワイシャツをメイビーを基調とした貴族服で包み込んでいる。
ユウナが着ている服がぎりぎり彼を貴族として認識させてくれるアイテムだと思えてしょうがない。
(ヒトはここまで醜くなれるのか?)
依頼人を前にして、失礼な思考に捉われてしまう。ユウナは怒りの矛先を物からヒトへと変えてきた。もちろん、その対象はシュバルツだ。
彼は口から唾をまき散らしながら、こちらへ怒号を飛ばしてくる。
いっそ、あの豚のように膨れた顔に一発、
ぐっと堪えて、ユウナの主張を聞くことになる。
「僕の幼馴染のナタリー・ヴィオレがあろうことか、卑しい材木商をやっているブラン家の長男であるルイス・ブランとお見合いをするんでしゅ!」
「はぁ……」
「はぁ……じゃないでしゅ! 僕とナタリーは運命の赤い糸で結ばれているのでしゅ!」
「勘違い……では?」
つい、ぽろっと言葉が口からこぼれてしまった。紅潮した豚顔のユウナがさらに赤くなった。あまりにも怒りのためか、顔が黒く変色し始めている。
「戯言はよせ! ナタリーのお家が事業で傾いているのをいいことに、それをネタにナタリーとの縁談を無理やり進めたのでしゅ!」
「それはあまり感心できないやり方だな」
「その通りでしゅ! ナタリーのご実家のヴィオレ家は石材屋をやっているでしゅ! ブラン家としては建築業にも手を伸ばす予定なのでしゅ!」
「なるほど……建築業となれば、材木商と石材屋が結びつくのは大きいアドバンテージだな……」
正直、ユウナのことをクソボンボンと思っていた。しかし、彼の話を聞けば、貴族同士の政略結婚に聞こえてくる。望まぬ同士の結婚である可能性があった。
得られた情報を頭の中で吟味しようとした。だが、その思考をユウナは邪魔してきた。むっとした表情になったが、顔をニンジャマスクで隠しているため、あちらにこちらの感情を伝えることができなかった。
「とにかくだ! ナタリーは弱みを握られているんでしゅ! それで半ば無理やり、縁談が進められている。それを破談にするのは正義の行いなのでしゅ!」
怪訝な表情になった。だが、それはユウナには伝わらない。さらにユウナがまくしたててくる。
「ブラン家の長男、ルイスの悪事を掴んでくるでしゅ!」
「なんのためにだ?」
「そんなの社会的制裁を受けさせるために決まっているでしゅ!」
自然と手を握り締めてしまった。ユウナの言っていることは個人的な制裁だ。破談させるのは依頼内容にかなっているため、それは受け入れようと思えていた。
だが、このユウナの発言を受けて、怒りがふつふつと湧いてきた。私刑を
声に怒気が乗らないように注意した。自分はニンジャだ。ニンジャゆえに感情は殺す。
「調査で何も出なかったらどうするのだ?」
「そんときは物理的に痛めつけてくるでしゅ!」
こめかみにびきっという音が鳴ったのを耳で聞いた。こめかみに青筋が立っているのを手で触らなくてもわかる。
烈火の炎を瞳に宿して、ユウナを睨みつけた。するとだ、彼はボンボンらしく、青ざめた顔になる。だが、彼へと1歩、足を踏み出そうとした時、カチャッという不穏な音が耳に聞こえた。
「でしゃばるな……」
ユウナに代わるように前に出てきた男がいた。サムライが好む青と白の縦じまの着物に身体を包みこんでいる男だ。左手で鞘を持ち、右手は柄の上に置かれている。
(はぁ!? なんでこいつがここにいるのだ!?)
こちらはとまどいを隠せないというのに、サムライは一戦交えるのも致し方なしという雰囲気を身体中から溢れさせている。
(さては……こいつも高い報奨金に釣られたのだな?)
サムライはひと目でユウナの用心棒であることがわかる。さらには相当に腕が立つであろうことも、彼のいで立ちから察した。
「チッ!」
シュバルツは応接間に鳴り響くくらい大きな舌打ちをしてやった。さらに吐き捨てるように用心棒の後ろで震え上がるユウナに告げる。
「300万ゴリアテ、しっかり払ってもらう」
シュバルツはそう言うと、ユウナたちに背中を向けた。その途端、用心棒から放たれていたオーラが静まっていくのを肌で感じ取れた。
(まったく……とんでもない依頼を受けてしまった)
シュバルツは彼らに無防備の背中を見せたまま、応接間の外へと出る。しかし、行き場のない怒りによって、血がにじみ出そうなほどに拳を固めてしまう。
応接間のドアを閉めた後、シュバルツは「ふぅ~~~!」と思い切り、身体の熱を呼吸に乗せて、吐き出した。