結界が砕け散った音がした。
音とともに空に輝く満月が真っ二つに割れ、城の正面方向の奥のほう、森と草原地帯の境界線のところの空間が歪んでいく。
ここから一キロはあるであろう空間だ。
「侵入してきたわね」
「一体どうやって結界を突破したんだ? 場所は文献かなにかに残っていればわかるとして、あの結界を開くには吸血鬼の血が必要だ。それなのに……」
中庭の中央に立つ私の隣に、シュトラウスはゆっくりと降り立った。
そして彼の疑問はまもなく解決することになる。
歪んだ空間から、王都ヘディナの軍隊であろう集団がズカズカと地面を踏みしめる。
その先頭に立っているのは銀色の鎧に身を包んだ男だった。
銀色の鎧に鉛色の兜を被り、腰には剣をぶら下げ、背中にはライフルのようなものを背負っている。
男は両手で一本の鎖を握っていた。
「なんてこと……」
私は驚きのあまり絶句した。
男の握る鎖の先に、一人の幼い少年のような吸血鬼がくくりつけられていた。
そして吸血鬼の腕には血が滲んでいる。
つまりコイツらはあの吸血鬼の血を使って侵入してきたのだ。
「全員殺されたと思ってたんだがな……どうりで棺桶の中が空っぽなわけだ。あいつら、何体か吸血鬼を弱らせた状態のまま保管していたな」
シュトラウスは唇を噛む。
このためだけなのかは分からないが、マルケスは吸血鬼を隠し持っていたことになる。
しかも生き物としての尊厳を無視した形で、ただの結界を開けるだけの道具として連れている。
「随分とやってくれるわね。本当に人間以外をなんとも思っていないようね」
この場所にマルケスは来ていない。
しかし彼の意図が手に取るように伝わってくる。
不思議に少しでも関連していれば徹底的に迫害する。そんな強い意志がひしひしと伝わってくる。
「敵の数はおよそ三〇〇人ほどか? よくぞまあたった三日でここまで運んだものだ」
結界を開いて土足でこの世界に踏み込んで来た兵たちおよそ三〇〇名。連れてきた吸血鬼の少年がこちらに向かって手を伸ばす。
その手は痩せこけていて、ほとんど餓死寸前だ。
しかし伸ばされたその手を、あろうことか鎖を持っている男は剣で切り落とした。
吸血鬼の悲鳴が夜闇の城に木霊する。
大量の血を垂れ流し、吸血鬼は絶命する。
誇り高き吸血鬼は、本来腕を切り落とされた程度では死なないはずだが、極端な衰弱状態であれば話は別だ。
「リーゼ・ヴァイオレットとその一味! 大人しく出てこい! お前たちに逃げ場はない」
先頭の男は大声で警告し、銃を構える。
それにならって総勢三〇〇名の兵たちは、一斉に銃を構えて隊列を組む。
先程絶命した吸血鬼の死体を踏みつけながら、規則正しい足音を響かせながら行進を始めた。まるでそこに何もいなかったかのように進み続ける彼らを見て、シュトラウスの目が険しくなっていくのが見えた。
「シュトラウス……」
「なあリーゼ、我はいま驚いているんだ。ここまで怒りに身を焦がす日が再び訪れるとは思わなかった」
シュトラウスはそう言うと自分の手元にバイオリンを生み出す。
ここから音色で一気に殺すつもりだ。
戦士たちを相手に、戦うことさえしてやらないつもりだ。
彼らのすべての鍛錬を無駄にする殺し方。
「死んでしまえ」
シュトラウスがバイオリンの弦に弓を当てたとき、一発の銃声が響き、バイオリンの弦が弾き飛ばされた。
あの距離からバイオリンを狙って発砲したのか……。相当な精度だ。これは気を引き締めないとやられるわね。
「シュトラウス! 城の中に籠もるわよ!」
私はそう言ってシュトラウスの手を引くが、彼はビクともしない。まるで鉄の塊を引っ張っているかのように重く動かない。
「シュトラウス?」
「すまんリーゼ。我はいま我慢ができない」
シュトラウスは私の手を振り払って宙に舞う。
彼の周囲に血の武具が次々と姿を現す。
剣に槍に金槌、血でできた武具たちはシュトラウスの周囲を旋回し始める。
彼の得意な戦い方だ。
このまま高速で敵の懐に突っ込み、敵を細切れにする攻撃。
シュトラウスは旋回する武具とともに、敵の隊列に向かって突っ込んでいく。
兵たちは一斉に銃口をシュトラウス向けて発砲するが、銃弾はすべてまわりの武具たちが弾き飛ばす。
逃げるまもなくシュトラウスが突撃し、すれ違いざまに敵を恐ろしいほどの速度で切り刻んでいく。
接近された兵たちが剣を抜いて抵抗したせいもあり、五人を殺した段階でシュトラウスは一度宙に舞う。
私もなんとか参戦しようとしたときだった、数ある銃口の一つが私を捉えていた。
発砲音が響くまで気が付かなかったのは迂闊だった。
てっきり敵の注意は彼に向いていると思っていたのに……。
一発の銃弾が私の右胸を貫くのは一瞬だった。
「リーゼ!」
シュトラウスの声が遠くに聞こえた。
まるで水の中にいるかのように彼の声が遠くに聞こえ、同時に胸に激痛が走った。
ドクドクと流れ出る鮮血と遠くに見える私を撃ち抜いた銃口、空から私の元に急降下してくるシュトラウスの必死の形相。
徐々に下がっていく体温を感じながら、意識が遠くなっていくのを感じた。
死を覚悟するよりも、急降下してくるシュトラウスが無事に生き延びますようにと柄にもなく祈りながら、私の視界は暗い闇の底に堕ちていった。