結局、フレデリックが楽しい楽しい機械いじりを楽しめた我が世の春はタイプライターを確保するまでの一週間で終わりを迎えた。
その後は、主にタイプライターの紙を入れ替えるためにヨーキィの部屋に詰めることになった。
「よっし書けた!」
何枚目になるか分からない紙がタイプライターから——フレデリックにより——抜かれる。
「お、これで終わりですか?」
これでやっと解放される? と思いながら、フレデリックがヨーキィに尋ねる。
「うん。じゃ、フレデリック、次のお願い」
そう言って、ヨーキィが少し前に買わされた封筒を指し示す。
「あ、何に使うのかと思ったら、もしかしてずっと手紙を書いてたんですか?」
プライベートだから、と中身を見ないように言われていたフレデリックはヨーキィがタイプライターで何を書いていたのか知らない。
「そ。お金は金庫の中のもの使っていいから、一枚ずつ封筒に入れて、それぞれその宛先に出してきて」
といって、ヨーキィが今フレデリックがタイプライターから抜いたばかりの紙を指し示す。
フレデリックがよく見ると、それは住所と宛名の羅列であった。
「エドワード・ケネディ・エリントン、ルイ・アームストロング……」
フレデリックが震える声で宛名の羅列を読み上げる。
「み、みんな、最近頭角を現してきてると言われているビッグネームばっかりじゃないですか! 何を送るつもりですか!」
慌てて、フレデリックが封筒に入れろと言われた紙のうち一枚を手に取り、読み始める。
「あ、コラー、プライバシーの侵害だぞー」
とヨーキィが抗議するが、実体を持たないヨーキィに出来るのは抗議するまでであり、物理的に読むのを阻止する手段はない。
ちなみに、アメリカにおけるプライバシー権は一八九〇年に提唱され、今では多少浸透しているが、人間ではなくプラズマインドスフィア人格モデルであるヨーキィに適応されるかは裁判長も頭を悩まされることになる事案であろう。
「作曲依頼……!?」
そこに書かれていたのは、自分自身の自己紹介と「曲を聴きました」という感想の文章、そして、最後の本題として作詞作曲を依頼する文章が刻まれていた。
「な、なんてビッグネームに依頼するつもりなんですか! こんなの引き受けてもらえませんよ!」
「そんなのやってみないと分からないじゃん。いいから送ってってば」
「え、えぇ……」
フレデリックは珍しくヨーキィの頼み事について明確に難色を示した。
「無理ですよ。これでもし何かトラブルになったら、その責任を僕は負いきれません……」
先ほどプライバシー権の話の折に触れたが、プラズマインドスフィア人格モデルであるヨーキィには、人権がない。現行のアメリカ連邦法にはプラズマインドスフィア人格モデルに私人格を認める条文がないのである。
このため、人格モデルはあくまで艦長や専属整備士の所有物と扱われ、もし何かトラブルが発生し、責任が生ずるところが求められた場合、それは所有者である艦長や専属整備士に向くこととなる。
現在、ノーフォーク海軍工廠に入渠しているヨークタウン。艦長が不在の状況だ。つまり、今ヨーキィがトラブルを起こした場合、その責任を取ることになるのは専属整備士であるフレデリックになるのだ。
「むー。じゃあいい。専属をフレデリックから変えてもらう」
とヨーキィが頬を膨らませながら言う。
「え」
望むところだ、とフレデリックは思った。こんなちょっと給料が良いだけで、ちょっと他の平整備士より偉い扱いになるだけの忙しく面倒な仕事、さっさと変えてもらおう。
(そうだ。こんな……こんな……)
青い郵便ポストに数十の封筒が投入される。
「あーーー! 僕はどうしてこうなんだーーー!」
フレデリックは結局、ヨーキィの用意した郵便物を郵便ポストに投函していた。
突然叫び出したものだから、ノーフォークの街ゆく人々は何事かとフレデリックの方を振り向く。
「あ、お騒がせしてすみません」
ペコペコと周囲に謝罪しつつ、フレデリックはノーフォーク海軍工廠へと戻るのであった。
(まぁどうせ、返事なんて来るわけないし。ヨーキィさんが痺れを切らすまでヨーキィさんの相手をせずに機械いじりをしていられるかな)
ヨーキィからは返事が来るまでは作業していて良いという言質を取っていた。どうせ返事など来るはずもない。
その日から、フレデリックは再び艦内の整備の仕事に戻った。
それから二ヶ月が経った。
フレデリックからすると恐ろしいことに、何人かの作曲家から返事が来ていた。
彼らはプラズマインドスフィアの人格モデルからの手紙という珍しい自体を珍しがっており、依頼を引き受けるかはしばらく文通して決める、などと返事をしたのだ。
「もし向こうが嫌って言わなかったら、サッチマにお願いすることになりそう」
などと上機嫌にヨーキィが言う。
「そ、そんな愛称で呼んで……、怒られないんですか?」
「いや、手紙では普通にアームストロングさんって書いてるよー」
怖すぎてやりとりの中身は全く読めていないフレデリックである。
ルイ・アームストロング。現在三十代のトランペット奏者である。口が大きいことから
「サッチマの『Heebie Jeebies』、好きなんだよねー。フレデリック知ってる?」
「そりゃ知ってますよ。ジャズ史上初のスキャット・ヴォーカル曲として当時話題になりましたから。じゃあヨーキィさんもスキャットを歌うつもりなんですか?」
「それはサッチマ次第かなぁ」
時間は流れ、文通は十月十七日の出航日直前まで続いた。
「ヨーキィと一緒に戦う〜。嵐の夜も恐れずに〜」
出航日。ヨーキィの元には仮の歌詞とメロディが届いていた。
ヨーキィは上機嫌にそれを口ずさみながら南方への慣熟航行に向かったのだった。
ヨーキィがクルー達の前で歌や踊りを披露するようになってしばらくした十月三十日のこと。
「フレデリック、今すぐ私の部屋に来て!」
機関室で主機の様子を見ていたフレデリックのそばにヨーキィがやってくる。
「どうしたんです?」
「いいから来てってば」
そう言い残すと、ヨーキィはすぐに消えた。
機関長のジャックに視線をやって頷いたのを確認すると、すぐにフレデリックはヨーキィの部屋に急いだ。
ヨーキィの居室に来ると、ラジオがニュースを流していた。
ニュースは火星人の襲来を告げていた。アナウンサーの声は切迫しており、落下してきた隕石とみられた物体から異形の生物が現れ、人間を熱線で殺害したという情報を説明している。
それも同様の現象はアメリカの各所で起きているようで、アナウンサーの元には同様のニュースがひっきりなしに報告されているようだ。
「た、大変じゃないですか!」
フレデリックはその恐ろしげな語り口のアナウンサーの言葉に驚愕する。
「すごいでしょ。最初、火星でのガス爆発が観測されたってニュースだったんだけど……」
「こ、こんなのカリブ海に向けて呑気に航行している場合じゃないですよ。艦長はどうしていらっしゃるんです?」
「え? んーっと……、艦長室で寝てるみたいだよ」
もう夜である。何も不思議な話ではない。
「なら、急いでお伝えしに行かないと」
フレデリックが大慌てでヨーキィの居室を飛び出す。
「え? あ? ちょ、ちょっと? フレデリックー!?」
慌ててヨーキィもそれに続く。