調整と整備の間、一般的にプラズマインドスフィアは起動されない。
理由は大きく分けて二つある。
まず、プラズマインドスフィアは電力を食うと言うことだ。別にアメリカは電力供給量に困ってはいないが、削減出来るものは削減するに越したことはない。これが、整備する側の理由。
次に、調整及び整備中はプラズマインドスフィアの人格モデルが退屈すると言うことだ。これは艤装中のヨーキィがひたすら暇を持て余していたことからも窺えるだろう。これが人格モデル側の理由だ。
勿論、稀に調整状況の確認のために一時的に起動することはあるが、それも一時的であり、恒常的にプラズマインドスフィアを起動しておく、と言うことは基本的にない。
そんなわけで、これからの数ヶ月はフレデリックにとってこの世の春となるはずであった。
ここ一年ずっと続いていたヨーキィの
そんなわけで、フレデリックは朝から意気揚々と整備長のジャック・デラネイ少佐に声をかけて、指示を仰いだ。
「お、暇なのか? なら……」
少し変なことを言っている気がする機関長へ指示を仰いで、担当箇所を与えてもらい、しゃがみ込んで担当箇所の整備を始める。
それから数分後のこと。
「あ、いたいたー。フレデリックー、今度、タイプライター持ってきてー」
通路の先にヨーキィが出現し、通路を走り、フレデリックに迫ってきた。
「えぇっ!? な、なんで?」
予期せぬヨーキィの登場に動揺したフレデリックは手に持っていたレンチをあわや取り落としそうになる。
「大丈夫?」
ヨーキィが咄嗟にレンチに手を伸ばしすり抜けて、フレデリックの手に収まる。
「だ、大丈夫です。それで、どうしているんですか?」
「え? フレデリックが前に自分で言ってたじゃーん。『マインドスフィアの最大稼働時間もテストしておきたいとのことでした』ってー」
ヨーキィはしゃがみ込んでしゃがんでいるフレデリックと目線を合わせて返答する。
「そういえばそんな話してましたね……」
がっくり、とフレデリックが項垂れる。
しかし、同時に納得もした。ジャックの「お、暇なのか?」という言葉が引っかかっていたのだ。
「僕の役目はあくまでヨーキィさんの面倒を見ることってことだったのか」
はぁ、と強くため息を吐くフレデリックをヨーキィは不思議そうに見つめていた。
「ねぇねぇ、フレデリック聞いてるー? タイプライターだよ、タイプライター」
「はいはい、分かりましたよ。タイプライターですね」
フレデリックは諦めたようにそう返事をして……。
「って、タイプライター? そんなの持ち込んでどうするんです?」
「それは持ってきてからのお楽しみー」
楽しそうに微笑むヨーキィにフレデリックはもう一度ため息を吐く。
ヨーキィはこういうところがある。楽しいことは当日その時までのお楽しみにするのが周囲を楽しませられると思っているのだ。
というか、そういう振る舞いに喜ぶクルー達にも問題がある、とフレデリックは思っていた。フレデリックに言わせれば、クルー達は概ね全員、ヨーキィに甘いのである。
「分かりました。タイプライターですね」
フレデリックは素直に頷く。断っても良いことは何もないからである。
「ん、ありがとー」
ヨーキィが立ち上がって、フレデリックに背を向ける。
「あ、どこ行くんですか」
「私の部屋ー」
人格モデルの性格にもよるが、人格モデルに部屋が割り当てられることは多い。
艦内どこにでも好きなタイミングで現れることが出来、作戦中は基本艦橋にいるとはいえ、やはり定位置があると伺う側も伺われる側も助かるのだ。
そんなわけで、ヨークタウンの艦内にはヨーキィの居室があった。勿論、模様替えにフレデリックがこき使われたので、フレデリックとしてはあまりいい思い出のある部屋ではない。
「あ、フレデリックは整備してていいよ。私は一人でラジオでも聞いてるからー」
「お、そうですか!」
フレデリックは顔を輝かせる。プラズマインドスフィアの人格モデルは艦内の設備を自在に操れる。それはラジオも例外ではなく、ヨーキィはラジオなら一人で聞けるのだ。ちなみにレコードプレーヤーはヘッドシェルを物理的に動かす必要があるのでヨーキィ一人では聞けない。
艦が寄港した日、ジャックがヨーキィのためにラジオをプレゼントしたとは聞いていたが、まさかそれが自分を救ってくれるとは。
「ありがとうラジオ。ありがとうデラネイ少佐」
「でも、用意出来たら部屋にタイプライター持ってきてねー」
「はい喜んでー!」
なので、フレデリックは上機嫌であった。
「あ、IBMの最新のやつねー」
「え」
その上機嫌はすぐに失われかけたが。
一週間後。フレデリックはタイプライターを持ってヨーキィの居室を訪ねた。
意外なことに、ヨーキィはその間、一度もフレデリックの元を訪れなかった。
「あ、いらっしゃーい。待ってたよー」
「調達するのに苦労しましたよ。これでいいんですよね?」
フレデリックがヨーキィに差し出すのは黒い塗装にスペースキーなどの一部の重要なキーが赤く塗装されたタイプライター。三年前に発売されたばかりの最新型のタイプライター「IBM Electric Typewriter Model 01」である。
「ありがとうー、じゃあそこの机の上に置いてくれるー?」
「はい。けどこれ、お金かかったんですけど」
艦長か誰かが予算出してくれるんでしょうね、とフレデリックがヨーキィに視線を投げる。
「あ、お金の件は大丈夫ー。そこの棚の金庫を見てー」
とヨーキィが指差す先をフレデリックが見ると、まだ研究段階のはずの電子ロックが施された金庫がある。そのダイヤルが自動で周り、そしてロックが解除され、ひとりでに開く。
中にはたくさんの紙幣が入っていた。
「使った分だけ持っていってー」
「こ、これ、どうしたんですか?」
「私がスターになりたいってクルーに相談したら、みんながカンパしてくれた。……もしかして、足りない?」
「い、いえ、これだけあれば足りると思います」
「じゃ持っていってー」
フレデリックは恐る恐る金庫に近づき、紙幣を手に取る。
あまりに無防備すぎる、とフレデリックは思った。自分に悪意があれば、容易に必要以上のお金を受け取ることが出来るだろう。
多少多めにもらってやるか。折角ヨーキィの
「ん? いくら使ったか忘れちゃった?」
「い、いえ、大丈夫です」
結局、フレデリックはきっちり自分が使った分だけを受け取った。
「じゃ、紙セットしてー」
「ま、待ってください。まさか僕をタイピスト代わりにするつもりですか?」
「そんなことしないよー。いいから紙セットして」
フレデリックは訝しみながら紙をタイプライターにセットする。
「よーし、いっくよー」
直後、タイプライターがひとりでに動き、文字を印字し始めた。
「え、えぇっ!? ど、どういうことですか?」
フレデリックが驚愕する。タイプライターは先端部に活字が付いている部品が、機構を介してキーに直結しており、キーの押下により、梃子の原理で稼働して動く原理である。つまり徹頭徹尾物理的な機構で、プラズマインドスフィアの出る幕はないはずだった。
「あれ? フレデリック知らなかった? まぁ私もジャックから聞くまで知らなかったんだけど、このIBMの最新型は電動タイプライターって言って、モーターで動くんだよ」
だから、私でも動かせるのです! と自慢げにヨーキィが笑う。
「へぇ……」
ヨーキィはどうやら少しずつ自分一人でも出来ることを増やしていきつつあるようだ。
いつかヨーキィは自分の
「フレデリックー、紙差し替えてー」
「あ、はい。ただいまー」
それも一瞬のことだったけれど。