鉄包基地と都市を繋ぐ国道は整備が整っており、重い荷物を背負いながらのジョギングに適している。若いうちの苦労は買ってでもしろという亡き祖母のありがたい言葉を実践するにはうってつけだ。
たとえ役目を放棄したと言っても、自堕落になれるほど落ちぶれてはいない。
(珍しく星が見えるな)
すっかり日が暮れて星々が輝く夜空に感心する。
空気が悪い鉄包島だが、一定周期で工場などから排出されるガスが霧散し、綺麗な星空を映し出す。いつもなら何か良い事が起きる前触れなのではと期待に胸を膨らませる所なのだが。
(あんな事があっちゃな……)
鉄包基地でのやり取りを思い出し、渋い顔になる。
詩火の怒りは正論だと分かっている。西部の港湾を除いて周囲を森林に覆われたこの鉄包島は、六玄田家が代々守ってきた企業城下街だ。戦国時代に良質な鉄と高度な製造技術からなる武器を時の将軍家に提供する傭兵集団の隠れ里が起源であり、日本海に浮かぶ島で本土から離れているという理由もあって現代も政府の代わりに都市の自治を行っているのだ。
鉄包島とは言わば六玄田家が統治する人口約60万人の小さな国。その国の人間に危害が及ぶのであれば、それを防ぐ力があるのなら振るうべきだという理屈は間違っていない。
(でも、今更俺達がやる必要もないだろ)
それでも、刀悟は無意識に首を振って認めかけた詩火の思いを否定する。
ヒーローなんてものは治安が壊滅的で、警察が機能していない町で初めて存在意義がある。だが鉄包市は軍の錬度が高いし、アメリカとカナダ、メキシコからなるACMCの駐留軍も存在する。これだけ充実した戦力なんて世界広しと言えど他に存在しないだろう。
(それで救えない命があったとしても、それは運が悪かっただけだ)
だからヒーローなんて辞めた。今の自分がやるべきはムクロダ社の製品をお得意先に売りつけて利益を出し、いずれは美少女と幸せな暮らしをする。それが刀悟の目指す普通なのだ。
そう自分に言い聞かせてるように感じて苛立ちが募っていると。
ピコンッ
ポケットから聞き慣れた電子音が聞こえる。
「何だ、こんな時間に何をやらせる気だ?」
これは依頼が着た事を知らせる音だ。一族を束ねる六玄田家の当主たる者、市井の助けを望む声に耳を傾けなければならない、などと言って恵流の父親が強引に押し付けた便利屋アプリ。実態は会社の実権を当主の刀悟から遠ざけるための口実作りだが。
取り出し、画面で自己主張するメッセージボックスを押すと、『先日市議会にて危険遊具指定が解除されたジャングルジムの警告テープを取り外してほしい』と書かれた内容が映し出される。
「何だよオジさんのヤツ、指定解除は来月って話だったんじゃねえのか」
予定を繰り上げるにしたって極端すぎるし事前の連絡すらないのは非常識だろと顔をしかめる。この程度の無茶振りなら快く応えてくれるだろうという魂胆を隠そうともしない横柄さと、一応は仕事であるはずなのに依頼金が千円というお小遣いレベルの金額しか振り込まないセコさはある意味で才能だ。
「今度会ったら割に合わないってもっとせびってやる」
だが愚痴ってもしょうがない。こんなのでも一応は仕事を用意してくれる親戚からの依頼だ。ちょうど指定された公園はここから目と鼻の先。さっさとやってグラビアアイドル雑誌の電子書籍を買ってやろうと思い立った時だ。
「っ!?」
空気が変わった。
まだ六月。それもとっくに日が沈んでいるというのに、異様な熱気に絶え間なく汗が流れる。
空気を口から吸い込むたび、溶けた鉛のような味が広がる。
そして一見して問題ないように見える視界は、まるで陽炎のようにうっすらと揺らいでおり、尋常では無いことを知らせている。
「これは、嘘だろっ!」
ありえない、詩火が対処してから数時間も経っていないはず。疑問が解消されずに頭の中で問答を繰り返していると。
パンパンッ!
火薬に押し出された弾丸が空気を裂く音が響いた。
(この音はっ!)
平穏が遠く離れていく恐怖を無視して、刀悟は国道から外れた街路へと走っていく。
そこはまさにこれから向かおうとしていた公園だった。中央に噴水があり、隅にはブランコと、周りをテープで囲われたジャングルジムだけの殺風景な庭園に、複数の影が残光を残して縦横無尽に交差している。
「っうう!」
左眼が熱を帯びている。
不要なものとして封印していた物が警告を発しているのだ。空気に触れるだけで走る激痛の中、それでも左眼を大きく見開き、影の群れを凝視する。
常人には軌道の跡しか見えない影がスローモーションのようにゆっくり動いているように見える。異常を捉える眼球の先には黒と赤が混じり合う体表。大人の腰辺りまで頭を下げた前傾姿勢。丸太のように分厚い尻尾と肉厚な後ろ足に対して小さな前足。細長い頭部の先端で小さく自己主張する硬質化した鶏冠に、捕食ではなく噛み殺す事を目的とした無造作に生えた牙。その姿は恐竜映画に出てくる小型恐竜にそっくりだ。
(間違いない、カテゴリーCだ! それもラプトル型が十匹もっ!)
刀悟は驚愕する。生きとし生ける物を見境なく襲う異常生命体にして、この星に存在する全ての生命体と相容れない世界の敵『ザウグ――悪性存在――』。目の前にいるのは多くの種類が確認されているカテゴリーCの中でも、スピードと狡猾さが特徴のラプトル型だ。
パンパンパンっ!
再び木霊する射撃音が、ラプトル型と対峙する影から発せられる。文明の利器である銃器を使用している点から、それが人間である事を示している。
(でも何でだ? これだけの数が前兆もなしにいきなり現れるわけがない)
どうも腑に落ちないと、刀悟は訝しむ。
神出鬼没と言っても、人間が支配してるテリトリーでは現れても数匹。それもひどく弱体化した状態になるはず。十匹にもなる群れが突然現れるなんて、少なくとも刀悟の知識からして非常識だ。
だが現実に目の前で暴れている以上は認めるしかない。そしてこれに対する対処も必要だ。たとえ普通の人間を目指しているとしても、害獣が現れたのならできる事をしなければならない。
スマホを取り出して起動させるが、電波が遮断されて使い物にならない。ザウグが複数現れた場合、周囲には低度のジャミングが起こる。軍用ならともかく一般人が持つスマホは単なる置物となってしまう。
やっぱりダメかクソッタレと愚痴るが、この一帯で電波障害が発生したのだ。すぐに異常を察知して国防軍が来てくれるはず。なら自分がやるべきは安全な場所へと避難する事だが。
(ラプトル型が襲っているあいつはなんだ?)
刀悟がこの場から避難しない理由がラプトル型と戦っている小柄な影の方だ。
自分ですら軌跡を追うので精一杯のラプトル型の波状攻撃をものともしない回避能力。そして一瞬のスキをも見逃さずに弾丸を浴びせる判断能力。とてもではないが普通の人間とは思えない。
漏れ出るマズルフラッシュの光から見える輪郭は小柄。発砲音はライフルやセミオート状態のサブマシンガンのそれよりは軽く、かと言って警察で採用されているリボルバーのニューナンブM60よりも重い。恐らく発射している弾薬は西側諸国で広く使われている9mm弾。発砲音の間隔から最大6発のリボルバーではなく9~15発の自動拳銃だろうか。
シカなどの中型の生き物を相手にするなら十分な威力だが、ザウグが相手では心許ない。事実、放たれた弾丸の全てが胴体に命中しているにも関わらず、ラプトル型は大きなダメージを受けている様子がない。
逆に小柄な影は最初に比べて動きに精彩さが欠けており、徐々に速度が落ちているのが目に見えてわかる。長期戦に持ち込めば勝機があると判断して一定の距離からヒット・アンド・アウェイを繰り返している。刀悟がこの公園に訪れる前から戦っていたのだろう。相手は最初の勢いを完全に失っていて、次第にラプトル型達に追い込まれてしまっている。
カチッ、カチッ。
突然、拳銃から乾いた音が発せられる。さっきまでの発砲間隔から弾切れはありえない。何らかの理由で動作不良を起こしたのだ。
ガンッ。
僅かなスキを見逃されるわけがない。遂に小柄な影がラプトル型の一匹の攻撃をモロに受けた。細くとも鋭い前足から繰り出させる攻撃はヒグマの爪を大きく上回る。吹き飛ばされて噴水にぶつかり、破損箇所から漏れる大きな水しぶきが辺りを水浸しにする。
(まずいっ!)
このままにはしておけない。遅すぎる判断で刀悟はカバンからスタングレネードを取り出した。検証用として渡されたサンプルで、不良品の可能性があるがないよりはマシだ。
上部のボタンを押し、ラプトル型が密集してる場所に向かって放り投げた。
ラプトル型達が刀悟に気づくと同時にピピピと電子音を鳴らしながら甲高い音と一緒に爆発する。ザウグにのみ聞き取れる特殊な音波は人間には多少耳障り程度の音だが、ラプトル型にとっては地獄の音響兵器になる。
暴れ、のたうち回るラプトル型達を押しのけ、噴水を背にぐったりしている影に駆け寄った。
目と鼻の先まで近づき、気を失っていると思われるそれを両手でがっしりと掴み。
「おいアンタッ、大丈夫かっ!? とにかくここはやばいから早く逃げ……」
声を張り上げながらその顔を見た。
「う、うう……」
苦悶の声を上げ、傷を負っていないはずのお腹を抑える少女を。
「あっ」
言葉を失った。そう形容するしかない。
エメラルド色に輝くボブカットは人工的な街灯に照らされてより神々しさすら感じさせる。
柔らかく大きな瞳と小さく細い顔。見た目に違わない小さな体を彩る白と黒に彩られた丈の短いドレスは独創的だが大人びた印象すら与える。
痛みで苦痛を訴える表情すら、この女性の美しさを添えるアクセントにすら思えてならない。
揺らぎのせいで歪められた世界にあって、その美しさは少しも損なっていない。
(え、嘘だろ。この子、)
「……貴方は?」
「っへ? いや、俺は……」
(いやいや、今はそんな事を考えてる暇はない!)
少女の容態は素人目で見ても危ない状況だ。ザウグは種類によっては物理攻撃以外の方法でダメージを与えてくる。傷がないからと言って見た目通り安全という保証はない。一刻も早く病院に連れていかねば。
一人で運べるかと思案すると。背後から殺意と憎悪のこもった唸り声が複数以上も耳に伝わる。
「やっぱり不良品だったか。オジさん、品質管理しっかりしてくれよ」
十匹のラプトル型はスタングレネードから回復し、突然の乱入者に威嚇を繰り返している。さっさと数の利を活かして突撃すれば良いものを。
「……本当についてねえ」
とことん自分は運に恵まれていないのだなと再認識する。
もう特別は辞めたはずなのに。
自分らしく生きていくために、普通を志したはずなのに。
「ああ、本当に」
それなのに、誰かを助けるために、自分の後ろで瀕死になっている女の子を助けるためには、そんな拘りを捨てなければいけないのだから。
「俺と出会っちまって不運だなあ」
レリース――開放――。そう小さく呟くと、刀悟の左眼は少女の髪色のように淡い緑に発光する。抑え込んでいた特別な力を開放するために。