「よ、ご苦労さん」
気がつくと、目の前には再び管理人が足を組んで椅子に掛けていた。
「これでいいのかい?」
「上等。歪みは消えた。俺的には大オッケー」
ふうん、と倉瀬はうなづいた。
「じゃあ俺の役目も、これで終わりだろ?」
「ああ。お前は行くべき所へ連れて行かれる」
「連れて」
「その先は俺の知ったことじゃない。無責任なんて言うなよ。高次の連中のすることなんだから、俺は手が出せない、ってことだ」
「別にいいよ。俺も気がかりは無いから」
倉瀬はくっ、と笑った。
「あっちの女の子は? お前の『カノジョ』」
「ああ…… あいつは強い。どうにかして生きてくだろ。そういえば、あんたが今言うまで、ずっと忘れてた。……ひでぇ奴」
全くだ、と管理人は言った。
「でもまあ、これで俺もまた、休める。物事は流れるままに、行くべき場所へ」
「あんたはどうなんだ、管理人」
俺? と管理人は面白そうに問い返す。
「そういうこと、聞く奴も珍しいな」
「あんたも元々は俺の様な、何処かの世界の出身なんだろう?」
「まあね。でも」
ちょい、と管理人は倉瀬を手招きする。
「俺に、触ってみな」
突然何を言い出すんだ、とばかりに倉瀬は顔をしかめた。いいから、と管理人は彼を無理矢理近づけた。
「……え?」
するり、と手はすりぬけた。思わず彼は管理人の顔を見上げた。その顔に手を伸ばす。栗色の長い髪に指を近づける。するり。
「どうして。だって、俺はトモミに触れられた。あんたも、その類じゃないのか?」
いいや、と管理人は首を横に振った。
「お前に俺は触れられない。俺は生身だから」
「生身」
「そう、この空間で唯一の生身。唯一、ってとこがミソでね。代わりが来ないとね」
いや違うな、と管理人は空をあおぐ。
「俺の居た世界の生身の奴が来ない限り、だ。前に紛れ込んだ奴が居たけど、別の所の奴だったから叩き出してやった」
「他の世界じゃ、いけないのか? だってここでたった一人なんて……」
ばーか、と管理人は口の両端を上げた。
「そんなこと聞いてる暇があったら、次の世界への希望を少しでも考えろよ」
「え、え?」
「次に生きる場所が何処か、は結局皆自分が決めるんだよ。願えよ。次にどういう場所で生きたいのか。ほら、もうお前消えかけてる」
あ、と倉瀬は自分の手を見る。本当だ、透けてる。
「管…… 人、……は……」
声が。どんどん身体が、意識がおぼろげになって行くのを倉瀬は感じた。次。自分の生きたい世界。でも管理人は。
「俺の生きる世界は、俺が決める」
最後に倉瀬の意識が感じたのは、その言葉だった。
***
終わったな、と管理人は思った。
ここまで自分に言わせるなよ、とも。
自分の居た世界に近い者にはつい言ってしまう。それもこれも、歪みの原因のくせに、自分に何故か同情するからだ。
ばーか、と管理人はその都度相手に言う。本当にそう思う。そんなこと考えるくらいなら、自分の次のことを考えろ。どうせ俺には滅多にそんなチャンス、来ないんだ…… でも。
ゼロじゃない。
彼は思う。
可能性はゼロじゃない。その時には、誰でもいい。転がり込んできた奴をここに置いて、自分はあの世界に戻るんだ。
でもとりあえず今は、その時じゃない。
またきっと、何かあったらお呼びがかかる。
―――少し疲れた。
彼は空間にその身体を沈み込ませる。
頼むから虫達、俺の身体まで食ってしまわないでくれよ。
彼が次に起こされるのはいつなのか、誰も知らない。