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21.彼は受話器を取り落とした。

「蒸し暑いねトモさん……」


 残暑厳しい折。ぼんやりとした空。湿気の多い大気。いいんだ、扉を開ければ、そこにはオアシスがある……

 しかし牧野のその期待は裏切られた。扉を開けても、蒸し暑さに変わりはない。


「あ、居ないのか……」


 九月に入っても、彼は毎日の様に彼女のマンションに通っていた。


 ……トモさん、何処へ行っているのかなあ?


 彼はトモミが居ない時は、ただその帰りを待つことしかできなかった。時には自分でできる範囲の食事を作っていることもあるが、中途半端な時間の今では、どうしようもない。

 まあいいやベースの練習でも、と彼はお気に入りの牛柄クッションを引っぱり出し、コーナーの楽器置き場へと足を伸ばす。


 あれ。


 何となく、目に違和感があった。

 何だろう、と思いつつ、彼は自分の愛用している黒無地を探した。だがそれは無い。

 おかしいな、と思いつつ、ロング、ショート総勢十二本あるはずの彼女のベースを見渡す。いちにい…… 全部で十本。二本足りない。黒無地と、螺鈿のメインベースが。


 あ、そっか。


 ライヴの時に、螺鈿のベースは暴れ回った能勢とぶつかって転んだ拍子に、ボディを傷つけてしまった。そして速効、楽器屋行きとなった。現在はセカンドが一時的にトップに昇進している状態だった。

 彼は仕方ない、と黒無地と似たタイプを引っぱり出し、弦のチューニングを始めた。

 ふと外を見ると、それでも先程まではぼんやりと白く霞んでいただけの空が、雲に覆われ、重い灰色にと変わりつつあった。


「蒸し暑いと思ったら…… 一雨来るかなあ」


 彼はにわか雨は好きだった。トモミと同じく、彼は予想ができないことには強くなかったが、にわか雨は違う。前置きがある。

 でも今日だったら、濡れても大丈夫だな。こんな暑くちゃ、絶対冷えてしまうことなんてないし。でも風呂は用意しておこうかな。あのひとが傘を持ってるはずないし。スクーターで傘なんて無理だし。

 そんなことをつらつら考えているうちに、案の定、水分をたっぷりと含んだ雲からは、雨が落ちだした。

 すごい音だ、と彼は風呂を洗おうとしたことも忘れ、思わずベランダにもたれ、落ちて行く雨と、その音の中に浸っていた。そのせいだろうか、電話の音が耳に届くまで、時間が必要だった。

 低いコール音。それは強く真っ直ぐ降る雨の音にも似ていた。ああ大変だ。彼は慌てて部屋を斜めに横切ると、受話器を取る。


「はい吉衛です…… はい?」


 彼は受話器を取り落とした。

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