ふっ、と目の前が明るくなるような感覚があった。
稔二さんに残した手紙が大きく書き換えられていたと知ってから、私は何もできずにずっとソファに横たわっていたみたいだ。
泣いていたのか、考え込んでいたのか。あれから、どれくらい時間が経ったのか。
視線を動かすと、手が見えた。誰かが私の髪をなでている。顔の下には柔らかいベロア生地。だけど、なんだか温かい。
久しく触れていない、人のぬくもり。
思わず頬ずりをすると、頭上から吐息交じりの声が聞こえてきた。
「……っ裕理?」
こちらを覗き込む稔二さんと目があった。
「えっ」
「起きるなっ……すまない、手紙を読んだあと。君はその場で倒れたんだ」
覚えていない。顔にもそう出ていたらしく、稔二さんが優しく頷く。
「最初、君はあの手紙について話してくれた。でもそのうち、耐え切れなくなったんだろう。そのままソファに倒れこんだんだ。すまない、目覚めるまでそばにいたくて、こんな姿勢に」
稔二さんに膝枕をされている……。そう気づいた瞬間に、私は顔を隠そうとして、稔二さんの膝に顔をうずめた。
「ゆっ、裕理?」
「あっ、ご、ごめんなさい……恥ずかしくて」
「いや、俺も、その、恥ずかしかった……君が起きてくれて、よかったよ」
初めて見た稔二さんの照れた顔が、私の胸の真ん中を打ち抜いていく。
これ以上見ていたら、もっと大変なことになってしまいそう。
急いで起き上がろうとすると、頭の奥がぐるんっと回るように眩暈がした。稔二さんの手が急いで私を膝上に引き戻す。
再び、私は彼の膝枕に乗せられてしまった。
稔二さんは私の髪をなでるのをやめない。私の心を蕩かしてしまうような優しい手つき。
そのまま目が閉じそうになったけれど、こうしてちゃいられない。急いで声をあげる。
「あの手紙は……」
私が切り出すと、稔二さんが小さく頷く。
「君が教えてくれたね。俺の恥知らずな言葉を聞いていたのは利治と君、そして、鈴村松恵である、と。……可能性があるなら、残念だけど、松恵さんだろうな」
やっぱり。
何のために?
彼女も稔二さんが考えていることが怖かった?
だめ。頭の奥が痛くて、考えがまとまらない。
「……でも。俺は松恵さんが、俺たちを裏切ったとは考えていない」
「だけど、鈴村さんは……」
私が言いよどむと、稔二さんは首を横に振る。
「そうだな、松恵さんしか手紙を書き換えられる人間はいなかっただろう。だが、松恵さんが俺たちを何か貶めようとして行動したとは、どうも思えないんだ」
私は驚きのあまり、頭痛も忘れて起き上がってしまった。
「じゃあ! 稔二さんは、なんで鈴村さんが手紙を書き換えたと思っているんですか?」
「ああ。彼女は俺たちを守るために、あの手紙を書き換えたのかもしれない」
私たちのために?
混乱しているの稔二さんには丸わかりだったみたいで、彼は小さく微笑みながら私の髪を優しく撫でる。
「……今回の件で、裕理は理由があれば嘘をつくのは得意だと分かった」
思わず顔が赤くなる。一瞬とはいえ、稔二さんを騙せたなんて、今でも信じられない。
「すまない。でも、君は本当に分かりやすかったんだ。今まではね」
返す言葉もなかった。分かりやすくなければ、私はああも良いように稔二さんの手玉に取られなかったと思う。
シャーリーさんに「小さくて幼く見えるから」と幾度となく注意を受けたけど、今ならよくわかる。決して体格だけで幼さは決まらないし、メイクで年齢は誤魔化せてしまった。
「君はこのまま、松恵さんや船内の従業員には、俺にユウという別人だと思い込まれているという前提で接してほしい。いいかい?」
「……その理由を知ると、私が嘘をついているって周りに分かるから、ですね?」
稔二さんが褒めるように私の頭を軽くポンポンと撫でる。
「その通り。でも、言っておいてなんだけど、君は俺を信じてくれるのか?」
「信じているわけじゃありません」
稔二さんがびくりと動きを止める。私の頭をなでていた手がそーっと離れていった。
「稔二さん、私が本当は嘘をついている可能性だってあるんですよ?」
「君になら、何度裏切られたってかまわない」
出会ったばかりの稔二さんを思い出して、私は思わず笑いが込みあがった。こういう気障なセリフをするっと口に出して、それでいて似合ってしまう人。
「私は雇い主としての稔二さんについては信頼してるんです。だから今は稔二さんが言う通りにします」
「……なるほど。君が
そう言って、稔二さんは私の左手を見つめる。
「流石に2年じゃ、日焼けの跡は残らないね」
彼の視線の先に、結婚指輪はない。
作業中に落としたらいけないから、指輪は外してずっとしまいこんである。日焼けの跡もすっかりなくなってしまった。
見るたびに苦しくなるから、船に乗ってしばらくはファンデーションで隠していたっけ。
すると。誰かが部屋に入ってくる気配があった。
稔二さんがするりと私から離れていく。私は急いで落ち込んだ表情に切り替える。
部屋に入ってきたのはもちろん、鈴村さんだ。柔和な表情を一変させて、私のそばに駆け寄ってくる。
「どうなさったの、ユウさん」
「ごめんなさい。実は部屋を整えるのに張り切りすぎてしまって……」
稔二さんが言葉を添えた。
「おかげで俺はエドワードさんに好印象をのこせたが、ユウさんが足をひねってしまったんだ。幸い、彼女の先輩が業務については代行してくれることになった。彼女に手を貸してやってくれ」
「もちろんです! ユウさん、痛みは?」
心配そうにこちらを見る鈴村さんに、一つも不審な点は見当たらない。彼女が本当に私の手紙を書き換えたなんて、思えないくらいに。
「まだ少し痛みますが、大丈夫です」
「そうですか……あっ。ところで、お昼ご飯が届いておりましたよ。レストラン・クイックのチーズバーガー、ユウさんと稔二さまで二人分、と思われるのですが……」
不思議そうに稔二さんが首を傾げた。
「昼食? いや、まだ注文していないはずだし、松恵さんの分を頼まないわけがないだろう」
そういえば。私と稔二さんが話を始めたせいで、昼食の注文はすっかり忘れ去っていた。
私と稔二さんが顔を見合わせると、鈴村さんが表情を強張らせる。
「……部屋にお持ちしておりませんが、どういたしましょうか」
私はシャーリーさんに言われた言葉が脳裏をよぎった。
『あなたを襲ったお客様。乗組員の誰かが、そそのかしたみたいなの』
鈴村さんの表情を観察する。彼女は目を見開いて、何かを確かめたがるように、チラチラとドアの外を見ていた。