―― 【アクア・プラチナム】 オフィサー用 キャビン
煙草を右手に携え、
客室・ランドリー部門のスーパーバイザーを務める彼女の目は、丸窓の外に広がる漆黒を睨みつけていた。
丸窓には室内の明かりを反映し、彼女の顔立ちがはっきりと映し出されている。
つんと高い鼻梁にうねる黒髪。瑠璃は自分の顔に自信をもっていたし、事実、多くの男性が瑠璃に声をかけてきた。
その中でも特別に自分に惚れこんでいた楜沢春貴を旦那に選び、子供を二人も出産して、今や周囲からは『幸せいっぱいのキャリアウーマン』として羨望を集めている。
でも。
自分にふさわしいのは掃除夫の夫じゃない。もっと、もっと、ハイスペックな男であるべき。
瑠璃はずっとそう考えてきた。
(こんなことになるなら、琴浦社長の話は断ればよかった……!)
苦々しく呟く彼女の脳裏に描かれるのは、この船内で『ユウ』と名乗っている一人の日本人女性の姿だ。
(よりを戻すって言ったらあっさり動いた白川の奴まではうまくいったのに! なんでよりによって、旦那本人と再会するのよ!?)
裕理を襲った白川和人。その彼と、かつて、瑠璃は付き合っていた。
今の夫である春貴に悟られないよう、客船乗務員になったころに破局済みだ。
だが、白川からすれば、瑠璃とは結婚の約束をしたも同然のつもりだったらしい。相当に渋られ、未だにひと月に一度はメールが来る程度に執着されている。
そんな彼だか会社をクビになるのも確実な、既婚女性を船で襲うという大胆な作戦への参加に頷かせられたのに。
イライラが止まらず、瑠璃は2本目のたばこに火をつける。
およそ3年前。瑠璃は【クリア・エッジ】で、ハウスキーパー部門のマネージャーとして活躍していた。
出産後も働けていたのは、協力的な夫、春貴の存在があってこそだ。
そんな彼女にとって転機となったのが、かの文月商事の御曹司・文月稔二の家でのハウスキーパーとしての採用だった。
―― 稔二に見初められれば、玉の輿もあるかも!
そんな不埒な思いで向かった文月家で、瑠璃は裕理と会うことになる。
どうして稔二がこんな子と結婚したのか、瑠璃にはまるで解らなかった。ぼんやりしているし、お嬢様でもない。
そうこうするうち、当時付き合っていた楜沢春貴との間に、子供ができてしまった。
なし崩しで結婚したが、まだ瑠璃の胸には稔二というハイスペックすぎる男への恋慕が残っている。
あれから2年。ついに稔二をフリーにできるチャンスが巡ってきたはずだったのに。
「はぁ……」
ため息をついて、瑠璃は自分の今後を考え込む。
その時。瑠璃の手元にあるスマホが、小さく鳴った。
「きたっ……!」
瑠璃は大慌てでタバコの火を消す。彼女が大きく息を吸って声を出すより早く、電話の主が口を開いた。
『もしもし? 櫻庭さん?』
「琴浦社長!」
『シッ。声が大きい』
電話の主は、囁き声で言う。
『厄介なことになっちゃったわね』
苦笑するのは清掃会社【クリア・エッジ】の女社長、
かつて裕理が頼り、そしてクルーズ船【アクア・プラチナム】への仕事を紹介した、彼女だった。
「社長。本当にどうしてくれるんですか?」
『私だって予想外よ。鈴村が協力してくれるからこそ、成り立つ作戦だったのに』
イギリス船籍である【アクア・プラチナム】は、数年前に日本の清掃会社【クリア・エッジ】との業務提携を結んだ。そのために、日本人の乗組員が多く在籍している。
だが琴浦は、この出来事は成長の足掛かりに過ぎないと思っていた。
『会社の規模を広げるには、あの子じゃウチの為にならないはずだった。あなたと違ってね』
楽しげに言う彼女は、裕理のことを思い描く。彼女に出会った時は、まさか文月商事とのつながりができるとは、少しも思っていなかった。
文月商事の仕事を掴めたのも、かつて裕理が世話になったからこそ。
だが裕理は離婚を選び、それどころか一年も船旅を続ける始末。
世界に羽ばたく会社にするには、使えるものは何でも使う。手が届かないものなど、この世に存在しない。
琴浦は裕理に離婚の意思を固めさせ、文月稔二をフリーにすることで、さらなる利益を得ようと目論んできた。
そんな時。瑠璃から連絡があったのだ。
―― かつて付き合っていた白川が船に乗っている。再会してしまい、業務に支障が出るかもしれない……。
琴浦はこの出来事に、ある企みを思いつくことになる。
『裕理が白川に襲われて離婚を決意してくれたらよかったんだけど、仕方がないわ。鈴村も怪しまれる頃合いよ。あなたは、裕理に対して自分が安全な存在だと思い込ませなさい。二人に対し、恩を売るの。もう一つ、別の作戦をすでに立てているから、安心して』
「本当に信じていいんですよね? 夫。いえ、春貴は」
『何も知らないわ。大丈夫よ。あなたが白川を煽ったという事実は、どこにもない。あなたは単に彼と船で偶然再会し、あなたが会いに来ると思い込んだ白川が、たまたま一人で部屋の前にいた裕理に手をつけようとしただけ……』
「それなら、いいです」
瑠璃は琴浦との通話を切る。
稔二がフリーになれば、春貴に子供たちを押し付け、離婚のうえで近づくことも考えていたが、作戦は変更だ。
(いざという時のために、離婚者への補助に反対している人間たちを、どんどん取り込むしかないわね……)
【アクア・プラチナム】の運営会社がどう考えているのかは分からないが、船には二つの派閥がある。
一つは離婚を考えている、あるいは経験したことで、運営会社に大いに忠誠心を抱いている社員だ。
もう一つは「離婚を決意するのがそんなに悪いの?」「夫・妻と喧嘩するなんて、あなたにも悪いとこがあったんじゃないの?」と考える社員たち。
両者には対立構造が実は存在しており、ここ最近では後者の意見が強まっている。
弱い者に強い者が味方している構図は、それ以外の人間の気持ちを煽りやすい。
船長のアーノルドが少数派となってしまった前者側なのも、拍車をかけていた。
(あのユウ……いえ、文月裕理は自分の事ばっかりで周囲が見えていないから理解できていなかったみたいだけど)
3本目のタバコに手を付け、瑠璃は再び、思考にふけるのだった。