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09

 口づけを交わす。揺れる熱が私を満たしていく間に、稔二さんの手が私の後頭部で髪をかき分けるように撫でるのが分かった。


 舌先が触れ合うたびに、喉の奥が乾いていく。でも、話がまだ途中だと思って、私はそっと稔二さんの胸元を押す。


 逆効果だと気づいたのは、手を彼の胸へ当ててすぐだった。


 とんでもなく速く彼の心臓が脈打っている。鳥肌が立って立ちすくむと、彼の熱を帯びた股間が私のお腹に当てられた。彼が、興奮している。


 やっと解放された唇から、唾液が銀色のきらめきになって長く伸びた。それほど深い口づけをされていたのかと思うと、頬が熱くなる。


「っ、みのるさん……」


「すまない。本当は、ずっと知っていたんだ。君がどこで、どうしているのか」


 ああ、やっぱり。


「……そんな気はしていました」


 稔二さんほどの立場にある人が、私を探し出す手段を知らないとは思えない。琴浦社長やアーノルド船長も私に気遣って、稔二さんが私を知らないでいるふりをしてくれたんだろう。


 ユウという仮初めの名前も、もうおしまい。私は、文月裕理に戻ったんだ。


 すると、稔二さんが私に口づけてくる。


 びっくりして、つい口から甘やかな吐息が漏れる。やっと解放されたかと思うと、囁かれる。


「敬語はやめてくれ。君らしく話してほしい」


「ですが、わたしっ、んっ、んふうっ……!」


「敬語をやめるまで、キスするよ」


 何それ。驚いてしまって、私は身をすくめる。返事ができないうちに、何度もキスが降ってきた。


 甘い言葉を囁かれた経験も、ロマンティックなデートを提案された経験もある。


「みの、るさっ、ん、ぁふ、んっ……」


 口を開いてもキスされてしまって、意識が遠のいてしまいそう。ソファにいつしか私の体は崩れ落ちて、あの日みたいに稔二さんが私の体を抱きすくめて、逃がしてくれない。


 こんな風に稔二さんに、まるで独占欲の塊みたいな熱を向けられたことはない。


 体の奥まで熱くなってしまいそう。


「っ、わかり、わかったから! 稔二さん!」


 小さく囁くと、稔二さんがやっと口づけをやめてくれた。目元に生理的な涙が込みあがって、ぽろん、と落ちてしまう。


「裕理。ああ、こうやって触れる日を、ずっと待っていた……」


 稔二さんの声に、今まで感じたことのない熱がある。困惑していると、稔二さんが静かに話し出した。


「君と出会ったのは地方の会社だった。どうしても。どうしても話しかけたい。こんな衝動は俺にとって初めてで、それからの自分の行動を、後悔したことなど、一度もなかったんだ。かつて君が、耳にしてしまったように、俺は君を都合の良い女だと認識したから妻に迎え入れたんだと、本気で考えていたんだ。でも違った……失って気づいたんだ。月並みな言葉だけどね」


 その言葉が本心からなのか、私には確かめる方法がない。けれど稔二さんが苦しそうに目を伏せるのを見て、信じたい、とも考えてしまう。


 稔二さんは私をそっとソファに座らせる。触れていたいのに、離れたい気持ちが胸の奥をよぎった。


 そして彼は一度デスクに向かい、一枚の紙が入ったクリアファイルを手に戻ってくる。紙質に見覚えがあった。私が稔二さんと暮らした家から逃げる際に置いた、手紙だ。


「稔二さん、それは」


 静かに稔二さんが頷く。


「この手紙を読んでから、俺は君の行方を探させた。だが行方が分かっても、俺は何も行動せずにいた。君が戻ってくる、考え直すだろう、そう考えていたんだ。だけど一年も過ぎるなんて、想像もしなかった。どうして行動しないのか何度も自問自答して、やっと気づいた……」


 稔二さんがそう言って、私の顔をじっと見上げる。緩く波打つ黒髪の奥から、静かな目が祈るのように私を見つめていた。


「俺は、君に愛されていないと思い知らされるのが、怖かったんだ」


「そんな!」


 思わず声が漏れた。そんな、そんなこと。


 私は稔二さんを愛している。だから、だからどんなことがあってもそばにいようと思って……。


 言葉を続けようとして、どうしようもない後悔が胸を貫いた。私は、わたしは、稔二さんにどれだけ愛していると伝えただろう?


「……私は稔二さんを愛している。愛していなかったら、結婚にも頷かなかった。あなたとこれからも一緒にいたいなんて、思わなかった。離婚を考えたときに逃げたのは、あんまりにもあなたが好きだから、だから……」


 私たちはお互いに、あまりにも何も知らなさ過ぎた。


 稔二さんも、私も、相手のことを知ったふりをしていたんだ。


「君の手紙を読んで、強く思ったよ」


 彼の手にある手紙が、ちらりと見える。私が残していった……。


「えっ?」


「裕理?」


 私は思わず稔二さんの手から、手紙をひったくるように取ってしまった。隅から隅まで読む。


【稔二さんへ。


今までお世話になりました。


あなたが求めているのは、実家の関係良好で、いつなん時でもあなたの要望に応え、どれほど帰宅が遅くなっても不平を言わず、子育てをしてくれる従順な存在だったんですね。

ご友人へのアドバイスなら、もっと優しい言葉を選べばよかったのに。


私が二年間、あなたの妻でいた分だけ、不幸になる女性が減らせたことだけが救いです。

慰謝料などはちっともいりませんから、離婚してください。よろしくお願いいたします。


裕理より】


 稔二さんは、これを読んだの?


 衝撃と恐怖がまぜこぜになると、人間は一周廻って冷静になるんだな、なんて思ってしまった。震える指先から血の気が引いて、お腹の奥まで冷えが走っていく。


 私の様子が尋常じゃないと分かったのか、稔二さんが心配そうに私を見つめた。


「……これ、私の手紙じゃありません」


「……なんだって?」


 愕然とした表情を浮かべる稔二さんに、私は重ねて言う。


「確かに離婚を申し出る手紙は書き残しました。でも、違うんです」


 手紙を捨てられてしまう可能性に備えて、私は書き残した手紙を写真撮影して保存しておいた。


 見ると苦しくなってしまうから見ないようにしていたけど、こんなことになるなんて。


「自分のスマホを持ってきます。待っててください!」


 急いで部屋に戻り、プライベート用のスマホを持ってくる。写真を探すところも稔二さんに見てもらいながら、私はだいたい一年前に撮影された一枚の写真を示した。


【稔二さんへ。


今までお世話になりました。

慰謝料などはちっともいりません。

離婚してください。


裕理より】


 あまりに辛くて、これ以上書くことができなかった。たった三行だけ。でも、私にとって精いっぱいの手紙。


「これです。私が残したのは、この手紙のはずなんです……」


 稔二さんは画像と、自分の手元に残された手紙を見比べて、深々とため息をついた。


「確かに……君の筆跡かどうか、調べてなかった。君が書き残したのだとばっかり思い込んでいた……」


 指先が、ピリピリと痺れてくる。


 とてつもなく恐ろしい予想が脳裏をよぎった。


―― 奥様。奥様が気落ちをなさり、離婚を決意なさったのは、利治としはるさまに稔二さまが話している内容を耳にしてしまったからではありませんか?


 あの日。稔二さんの会話を知っていたのは、利治さんと私のほかに、もう一人いた。


―― わたくしは奥様に幸せになっていただきたいのです。ですから、本当に離婚を申し出たことを後悔してほしくないのです。胸のうちにわずかにでも稔二さまへの想いがあるのなら、そのすべてを清算したうえで、稔二さまに向かい合ってほしいのです。


 鈴村さんにかけられた言葉が脳裏をよぎる。彼女は私の味方じゃなかったの?


(私が離婚しやすいように行動してくれた? ……でも、どうしてわざわざ、稔二さんを傷つけるような言葉を、こんなに……)


だけど私が知る限り、手紙をあの日の稔二さんの言葉になぞらえて書き換えられるのだとしたら、鈴村さんだけ。


「裕理、落ち着いて。君一人じゃない、俺もいる。それから、きっとシャーリーさんも協力してくれる」


 ぎゅっ、と稔二さんが手をつないでくれる。その熱に安心していいのか、私には今はまだ分からなかった。



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