あの日は、稔二さんと出会ってから八回目のデートの日。
私は夜七時からのデートを目前に、病室にいる母の元を訪れていた。白い肌、痩せた手。でも、私を心配そうに見つめるのは変わらない。
時刻は午後五時。窓の外は夕暮れが迫ろうとするころ合いで、黄色の強い太陽が少しずつ西へ向かって傾いていく。
「デートの日だっていうのに。来なくても大丈夫よ、もしかしたらプロポーズされるかもよ?」
冗談交じりに言う母に、私は言い返した。
「大丈夫。まだデートまで二時間はあるし」
「どうかしら。お母さんはね、お父さんにプロポーズされたとき、いつも通りのデートのフリして、山奥に連れていかれたんだから」
またその話か。今度は私が苦笑交じりに言う。
夜景を見るデートのはずが、妙に父のドライブ時間が長い。何をそんなに考えてるの、と母が問い詰めた結果……車の中でのプロポーズになったという。
これは母にとっての、鉄板ネタ、らしい。
「だって。とーってもきれいなとこに行くのかなー、と思ったら、まさかの車の中でプロポーズよ?」
父はあまりにも緊張しすぎて、予約していたレストランへの道を間違えた。
恥ずかしくて母に言えない。だからとにかく夜景が見えそうな場所を目指して、ひたすらドライブを続けたらしい。
「すぐにレストランに謝って。事情を説明したらね、ぜひまたいらしてください、ですって! それからは、何度も行ったわねぇ」
レストラン『リーヴ・アンシエンヌ』。そのレストランは、二人の思い出の場所だそうだ。
場所は、調べたことがない。母たちが数年に一度だけ行くような高級レストランらしいし、私には縁がないと思って。
「稔二さんなら、きっと素敵なところに連れていってくれるわ」
その時。まるで私と母の会話を理解しているかのように、電話が鳴った。私がおそるおそるスマホを取り出すと、稔二さんの名前が画面に表示される。
母は予想が当たったことを喜ぶように、右手の親指をぐっと突き上げて「グッドラック」と楽しそうに笑う。
「でも」
「大丈夫。先生から容態は安定しているって言われているし……ほら」
いうや否や、母はスマホの画面をタップして、私の代わりに電話に出てしまった。
「ちょっと、お母さん!」
「いいから、いってきなさい」
本当はまだ母のそばにいたかった。でも、他でもない母が稔二さんとのデートを望むのなら……。
「もしもし、文月さん、ですか?」
『稔二でいいって言ったのに。ごめん、実は仕事が』
言われて、一瞬ホッとする。もしかして仕事ができて、デートがキャンセルになるのかも。
―― そうしたら母と一緒にいられるのに。
『先方の都合でキャンセルになったんだ。待ち合わせより少し早く会えるんだけど、もし裕理さんの都合が大丈夫なら、迎えに行こうと思うんだ。今は、どこに?』
「えっと……」
母の方を見る。稔二さんからの言葉が聞こえていた母は、口パクで伝えてきた。
『びょういん、は、だめ、よ』
言われた通りに、私は居場所をごまかした。
「いつもの、スーパーの立体駐車場近くです」
車でやってくることが多い稔二さんとは、よくそこで待ち合わせていた。
『ああ、あそこか。わかった、三十分くらいでつくとおもうよ』
母がにっこりとほほ笑んで、私に言った。
「大丈夫よ。あなたが信じる人だもの」
「……うん、ありがとう」
答える声は震えていなかっただろうか。母が手の甲に軽く触れて、励ますようにポンポンと優しくたたく。
思い出せば思い出すだけ、私は自分が最初から嘘をついた人間だったと理解した。
言えばよかったんだ。
母には、もっと一緒にいたいって。
稔二さんには、母と一緒にいたいって。
そう伝えればよかったのに、どちらにも良い顔をして、どちらにも安心してもらおうとした私が、いけなかった。
水面に、ぽとん、と雫が落ちて波紋が広がっていくように、私の心が自分への怒りと失望に沈んでいく。
(だから今、プロポーズのことを思い出しているんだ……)
今と同じように嘘をついた。信じているはずの稔二さんに本心を伝えず、試すような言葉ばかり。
それどころか、自分自身を偽った。
私は私以外の何者にもなれない。嘘つきで、卑怯で、そんな自分だから愛されなかったんだって、気が付くのが怖かった。
手駒になってしまえば、愛なんて望まなければ、本当に私は幸せだったのかもしれない。
「たとえ信じてもらえなかったとしても、俺は君を信じている。君を、今、俺の前にいる、君だけを」
こちらを見上げる彼の目が、唇が、まるであの夜のように優しく溶けていく。
「君だけを、信じている」
耳の奥で、何かがとろける音が聞こえた気がした。
「……稔二さんは私を、何と呼びたい?」
覚悟していた。本当のところ、稔二さんは私が裕理だと分かっているんじゃないか、って。
だから。それこそ、彼は私を『裕理』と呼ぶんじゃないかと思っていた。
稔二さんが優しく笑う。彼の目はただ、ただ、私を見つめていた。
「君が望む名前で呼びたい。たとえそれが仮の名でも、君が望むのであれば呼びたいんだ。君が望む君でいてほしい。君は手駒なんかじゃない。都合のいい女でもない。俺にとって、名前が変わっても心の底から惹かれて守りたいと思う、たった一人なんだ」
正直に言うよ。稔二さんはそう言ってから、続ける。
「君にユウと名乗られた時。初めて出会った時。彼女が笑う様子をもう一度見たい、もっと話したいと、そう思った。窓を拭く君に『ちょっといいかい』と話しかけた時と……気持ちは全く同じだったんだ」
稔二さんの声が、私の脳の奥を溶かしていく。目頭が熱い。
とめどなく流れていく涙で頬が焼けて、全てが解けていくような気がする。
苦しい。辛い。怖い。叫び声を心が全力であげている。言葉にも、声にもならず、生まれたての子供みたいに全身がきしむ。
私の心の奥底。自分でも触れられなかった場所が、産声を上げる。
「ゆうり、と、よんで」
激しく囁くように告げた声が、熱を帯びた唇に飲み込まれた。