シャーリーさんが、不意に私の手を握りしめた。
『ユウ。これだけは伝えておく。私も、船長も、貴女の味方よ』
力強くて、そして私を無償の愛で包み込む様な温かい言葉だった。
その手のぬくもりに支えられて、大きく頷く。
『とても心強いです。ありがとう、シャーリーさん』
稔二さんがやってくる足音が聞こえる。私たちは、さも今まで打ち合わせをしていたと言わんばかりの雰囲気を醸し出して、同時に彼の方を見た。
『それでは引継ぎが完了いたしましたので、何かありましたらお声がけください』
『ありがとう』
シャーリーさんが私に小さく手を振って、部屋を出ていく。すぐに稔二さんが私のそばに来て、声をかけてくれた。
「ずいぶん君を気遣っていたね」
「はい。船に乗り始めたころからずっとお世話になってきた先輩ともいうべき方なんです」
「なるほど……」
稔二さんが立ちあがり、私の顔を覗き込む。
「ところで、昼食は何がいい?」
「えっ? ……ええっ、も、もうこんな時間なんですか!?」
ポケットに取り付けた時計を確かめ、私は思わず声をあげた。追いかけるように、くうーん、とお腹が鳴る。
なんだか前にもあった気がする。
「腹が減っては何とやらだ。レストラン・クイックのノーマルなバーガーはどうだろう? 味が気になっていたんだ」
稔二さんが優しく言いながら、ミニバーからジャスミン茶のペットボトルを取り出してきた。受け取ると同時、あの肉厚なパティとカリッと焼きあげられたバンズ、それから特製ソースの味を思い出して、お腹がますます空いてしまう。
そうだ。ユウには……いいえ。
(何があっても、私の味方……)
私には、シャーリーさんや船長、それに鈴村さんもついている。日本に戻れば琴浦社長もいる。母を亡くしたあの時のように、稔二さんしか頼れない人間じゃない。
それに。私は稔二さんが、自分が考えていたような理想的で完璧な男性ではないのだと、少しずつ分かり始めていた。
彼は私にとてつもなく酷い考えを持って、結婚を申し込んだのかもしれない。
でも。私はそんな彼へ離婚を突き付け、逃げ出した。自分が本当に求めているものが何かもわからず、ただひたすらに逃げるしかなかった。逃げて、にげて……そうしてようやく今、私が何をしたかったのか、分かり始めている。
私は離婚したかったんじゃない。
自分以外の何かになりたくて、逃げたんだ。
稔二さんのため、と思えば楽だった。母のため、と思えばなんだって我慢できた。
だって私のせいじゃない。
私自身が選んだ行動ではなく、二人に選ばされたと思って過ごしていける。
気づかないうちに私は楽な生き方を選び続けて居た。
でもその歪みは少しずつ、すこしずつ、私の心の中にたまっていった。そして苦しみの中に落ちて、おちて、どうしようもなくて。
そこに稔二さんの愛情が与えられた。たとえ仮初めでも、彼からの愛情が受け取れるのなら、胸の奥の歪みが生む苦しみなんて気にせずにいられた。
でも。でも。ああ、そればっかり!
ユウという仮の名前に甘えたのは、稔二さんに愛されない自分から、何もない自分から、逃げ出したくてたまらなかったから。
私は、わたしは自分自身が、大嫌いなんだ。
嫌いという感情は、不思議なものだ。
遠ざける選択をすることもあれば、嫌いだからこそ理解したいと考えて立ち向かうこともある。
たとえば昔はナスが嫌いだったけど、気づいたら食べられるようになったという話をよく聞く。あれも不思議なことかもしれない。
嫌いという感情は、好きという感情よりもずっと、人の変化に敏感な気がする。
そう考えながら、私は稔二さんに問いかけた。
「稔二さんは、奥様とあれから連絡を取っていらっしゃいますか」
「……いいや。どうして?」
「私には、大好きでどうしようもない人がいました。その人をずっと愛していたけれど、ある時……その人は自分を愛してはいなかったと知りました」
稔二さんは私をユウだと、本当に思ったままなのだろうか。
実のところ、裕理だと、気づいているのではないか。
私が嫌いな私自身を、彼は本当は、今は……。
「ユウさん」
私を見つめる稔二さんの目が、雨に濡れた窓ガラスのように曇り、湿り気を帯びていくのが分かる。
彼は決定的な一言を、私から待っているような気がした。気づかれるのが怖くて黙っていたの、そう言って謝れば、彼は私を許してしまいそうな気配さえした。
だから私は言葉を続けた。
「私はショックでたまらなくて、相手に気持ちのまま手紙と離婚届を残し、逃げ出しました。でも今までずっと、どうしてそんな行動をとってしまったのか、ちゃんとした理由が分からなかったんです」
「……どうして? 逃げ出そうと決めるなら、言葉として書き残すなら、何かが君には起きていたはずだ」
逃げ出さなかったら、いつまで経っても私はあのショッキングな出来事を抱えて生きていただろう。そしていつか、限界を迎えていた。
稔二さんに抱きしめられるたびに痛みを忘れたとしても、必ず思い出す日々を何年も続けた果てに、残っているのは私と言えるのかな。
きっと残るのは、文月稔二の妻という私だけ。
どれほど苦しくても、ずっとずっと幸せな、私だけ。
子供を産んで、文月家の跡取りを育てるそんな未来がやがて来ていたのかも。
だからこそ、稔二さんがくれるかもしれない愛のためだけに生きるのは、無理だと思ってしまった。
「私。その人と、これからも一緒に生きていけると、思えなかった。二年なら頑張れたけど、十年は無理だって、思ってしまったっ……」
目頭が熱い。頭の中に、たくさんの考えが浮かんでは、消えていく。
白川を私にけしかけさせた人間は、何かを望んでいる。もし、あの時、稔二さんが私を助け出さなかったら、私はおそらく彼に襲われていた。
口にするのも恐ろしい行為に及ばれ、心を壊されていたかも。
たとえ後で彼が犯罪者として捕まったとしても、私はもう二度と稔二さんの前に現れようとは思わなかった。
今の状況が、顔の見えない誰かが望んだとおりの状況なのか、そうではないのか、確かめたい。
そのためには……。
「聞かせてください。こんな話を聞いても稔二さんは、
唇から放つ言葉に重なるように、稔二さんの瞼が降ろされる。
静寂に包まれる室内で、ふと私は稔二さんからプロポーズを受けた日のことを思い出していた。