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05


 奥の部屋は最初の印象から、少しだけ南国っぽい雰囲気に変化していた。


 白やベージュ、コーラルピンクの小物を用意。


 ランプシェードは、薄い氷のような印象で目にも涼やかなカピス貝風のランプシェード。セブ島の民芸品としてお土産でも定番だという。


 そして、もともと設置されていたウッディなルームフレグランス。これはカラマンシーという柑橘類をイメージさせる、爽やかな香りに変更した。フィリピンで人気の果実だと、清掃係の友人から聞いたからだ。


 そして。室内のお花は、あえて日本風の生け花にした。文月家で花嫁として修業していたころに習って以来だけど、なんとかまとめられたと思う。


 完成した部屋を見て、私はハッとする。ここまで作り上げたけど、不要だったらどうしよう。


 慌てて鈴村さんに声をかけて、確認してもらう。


「まあ。裕理さま、素敵な心遣いですね」


 にっこりとほほ笑む鈴村さんに、私は言う。


「あの。ユウ、として評価いただけませんか? 稔二さんの妻ではなく、ユウという一乗組員として……」


 鈴村さんはしばらく私を見つめてから、小さく頷く。


「これからいらっしゃる可能性のあるお取引先にとっては、良い印象を与えるものと思います。ですが、少し気になるのです。もしそのお取引先がいらっしゃらなかったら、あなたの頑張りは誰の目にも止まらなかった……」


 彼女は私を覗きこむようにする。


「稔二さまのお役に立ちたい気持ちはよく分かります。でも、ああ……裕理さま」


 首を力なく左右に振り、鈴村さんは肩を落とした。彼女の目に浮かぶ涙に、驚いて私は駆け寄る。


「申し訳ありません。わたくしには、ユウさんとして評価するなど、できません。裕理さまは裕理さまです!」


 彼女の言葉に私は頷く。そう、その通り。何も変じゃない。


 ユウとして評価してほしい私の方が、きっと変わっている。


「ごめんなさい、鈴村さん。困らせてしまいました」


「い、いえ。わたくしこそ……」


 謝罪合戦になりかけた時、稔二さんの声が響いた。


「ユウさん。奥の部屋なんだけど、もう掃除は完了している?」


 すっ、と鈴村さんが立ち去っていく。


 彼の視線には、昨夜の出来事を覚えている様子はない。


 いや。覚えていたとしても、何も言わないようにしているのかも。


 詮索して藪から蛇をつつきだすのは怖いし、やっぱりひとまず何も言わずにいよう。


「はい。いつでもご利用いただけます。先ほど、鈴村さんに最後の確認をいただいたところです」


「そうか、ありがとう。少し会議に使うことになりそうだ。また声をかけるまでは、その部屋に関しては作業から外してくれ」


 彼は手元の資料を見ながら言う。その資料に、数十分前に見た企業の名前がちらりと見えた。


「かしこまりました。……あの」


「うん?」


 こちらを見て首を傾げる稔二さんに、心音がドッと跳ねあがる。


「会議を行うお相手はフィリピンのご出身でしょうか?」


 少し驚いた様子で、彼が目を見開く。


 それから私が会話を耳にした可能性に思い至ったようで、二度頷いた。


「ああ、そうなんだ。これからフィリピンで会う予定の企業の幹部と、昨夜、この船のラウンジで知り合ってね。かなり……日本酒好きな様子で、びっくりしたけれど」


 肩をすくめる稔二さんが、口元を抑えた。よくよく見ると、どことなく顔色も悪いような気がする。


 じっと彼の肌を観察して、気づいた。稔二さんはファンデーションを塗っている。顔色の悪さを隠すために、あえてワントーン明るくしている様子だ。


 つまり……昨夜の酔いは、その幹部とのやり取りでお酒をたくさん飲んだから。


 家でのことを思い返すと、いつも稔二さんはワインやカクテルを飲んでいた。傍らにはいつもチェイサー、お水を持っていたように思う。


 私は彼がお酒に強いのだと思い込んでいたけれど、ひょっとして。


「稔二さま、もしかしてお酒はあまり得意ではいらっしゃらない?」


 私がそう尋ねると、彼はため息交じりに言う。


「バレちゃったか。そうなんだ。本当はワイン2杯が限界で、それ以上飲むと眠くなるし、記憶が飛ぶこともあるよ。心配かけないよう、ワインを頼んだふりをしてぶどうジュースでごまかしたこともある」


 まんまと稔二さんの『お酒に強いフリ』に騙されていたわけだ。

 思わずじっとりとした視線を向けてしまう。


 お酒に弱い人なんて珍しくもない。

 むしろ弱いのに強いフリをする方がよっぽど心配になる。


 これから会うという幹部さんが日本酒好きということは、昨夜は稔二さんにとってとんでもない量の日本酒を飲まされたのかも。


 顔のファンデーションは、二日酔いによる顔色の悪さを隠すためだったりして。


「どうしてそんなウソを?」


 思わず声がきつくなる。しかし気にした様子もなく、稔二さんはさらりと言った。


「……裕理のことが好きだったから、かな」


 どこか遠くを見つめる稔二さんに、時間が停まったような感覚を覚えた。今の言葉を何度も頭の中で繰り返す。


―― 稔二さんが裕理を好きだった?


 どうして。稔二さんにとって私は、都合のいい、何でも言うことを聞くだけの妻じゃなかったの?


 混乱しながらも、私はユウとして話を続ける。


「そんな行動、奥様に心配をかける一方ですよ」


「……そうだな。きっとそうだったと思う」


 彼は思わせぶりに私を見た。昨夜のことを覚えているのかも、と一瞬ドキッとする。


 しかし。


「稔二さま。ジェームズ様がお見えです」


 鈴村さんの一言に、稔二さんの表情が切り替わる。仕事モードに突入した彼の目はギラギラと輝いていて、私は昨夜の熱が再び体の奥を焦がすのを感じた。


 だめ。こうしちゃいられない。


 私は稔二さんがジェームズ様というらしい相手を迎えに行くまでに、急いで奥の部屋に戻る。


(吐き気にいいのは、ペパーミント。これなら柑橘系とも相性がいいから……)


 以前習ったアロマオイルの講習を元に、ルームフレグランスの香りを調節する。


 それから室内のミニバーに、吐き気が起きたときに使いやすい市販薬を忍ばせた。


 トイレにはエチケット袋を追加。臭いを気にせずに済むよう、事前に空気清浄機を稼働させる。


 何とか思いついた限りの対応をして、私は部屋の奥にある内扉に速足で駆け込んだ。隣の部屋に入り、後ろ手にドアを閉める。


 私は清掃係のため、稔二さんのお仕事相手と直接会う立場にはない。


 そっと待っていると、通路を男性が通り過ぎる。


お仕事相手にいらしたのは、浅黒い肌を引き立たせるグレーのスーツを身にまとった男性だ。引き締まった体つきにムスクの香りをまとわせている。


 なんとか間に合った。


 そう思いながら立ち上がると、足首に小さく痛みが走る。


(やっちゃった……!)


 暴行を受けそうになった時。相手を突き飛ばそうとして腕に軽い捻挫を負っていたせいで、腕の動きを足でカバーしていたのがよくなかった。


 足を引きずらずに立てる範囲だけど、ひどくなるようなら医務室に行かなくちゃかも。


 ひとまず部屋に戻り、痛み止めの薬を飲んだ。けれど、時間が経つごとに痛みが増してくる。


(早めに先生に診てもらった方がよさそうね……)


 専属担当として、基本、部屋から離れる時には稔二さんに断りを入れる必要がある。


 話し合いが終わったら声をかけよう。そう決めてしばらく待機していると、奥の部屋から物音が聞こえてきた。


 早口で稔二さんとジェームズ様が話し合いながら、笑顔で握手を交わしている。彼らは隣り合って部屋から出ると、さらに立ち話を重ねていた。


 すると。部屋の隅に潜んでいた私を見つけた稔二さんが、嬉しそうにこちらへやってくる。


「ユウさん。ぜひ、彼に挨拶を」


 驚きながらも笑顔で対応する。ジェームズ様は私を見てにっこりとほほ笑むと、紳士的に握手を求めてきた。


『ありがとう! あの部屋は君がセットしてくれたんだろう? すぐわかったよ、カラマンシー! 僕の大好きなくだものの香りによく似ていた。地元にはしばらく帰れていなくて、正直味も忘れかけていたんだけど、あの香りですぐに思い出せたよ! 帰郷がより楽しみになった』


 握手に応じながら、私は肩の力が抜けていくのを感じていた。


 よかった。私の行動は、無駄じゃなかったんだ。ユウとして考えたこと、それが稔二さんのお役に立てたんだ。


 興奮した様子のジェームズ様が、さらに言葉を重ねる。


『それに生け花も! うちの社長が日本好きで、写真を送ったら喜んでいたよ。事前に話をしていたならまだしも、こんな短時間で特別なもてなしを受けるなんて、思わなかった。やっぱり稔二には見る目があるね』


 くすくすと笑う彼の言葉を聞いて、胸の奥が熱くなる。裕理として身につけた技術を褒められたのが、素直に嬉しかった。


 稔二さんとまた会う約束をしたジェームズ様が、部屋を去っていく。見送りにつきそっていった稔二さんが、ほどなく、満面の笑みで部屋に戻ってきた。


 彼の手が私の両手を包み込み、そして。ギュッ、と背中に両腕が回された。


 ハグ、というには深すぎる。私は今、彼に、ユウとして抱きしめられている。


「ユウさん! ありがとう」


 彼にお礼を言われると、脳の奥までジンと痺れるように幸せが満ちていった。


 今まで感じた経験のない嬉しさと幸せが入り混じった気持ちで、思わず涙がにじんでしまう。


 私はお役に立てたんだ。清掃した場所を目にした人、その場所で過ごす人、いろんな誰かにとってその一瞬がより良い時間であってほしい。そう願い続けた自分の気持ちは、決して無駄じゃなかった。


「っ、す、すまない。痛かった?」


 私の涙に気づいた様子で、稔二さんが慌てて両手を離した。



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