「みのる、さん……!」
ユウとして、文月さまと呼ぶべきだと分かっていた。あんな男に迫られた心の傷を抱えたユウなら、稔二さんからの振る舞いに激高するか怯えるかして、逃げ出すだろう。
でも私は裕理でもある。稔二さんは私の体に、初めてを刻み込んだ人だった。
キスも、愛撫も、全部稔二さんが教えてくれたから。
「裕理、ゆうり……」
後頭部に差し込まれた大きな手が、何度も髪をすく。腰に手が這いまわってきて、お尻の間が熱い。
胸板に押し当てられた乳房の中央が、甘い疼きに包まれた。
Tシャツとナイトブラがあっても分かるくらいに、乳首が硬くなっている。
「みのる、さ。あっ、みのるさ、んっふうあ……」
喘ぎながら私は彼の手に縋ることしかできない。逃げ出せない。
涙が目の前を覆い隠す。裕理として愛されているのに、胸の内側が切なくてたまらない。
「裕理、可愛い」
妖艶に笑った稔二さんの唇が、私の鎖骨を熱く吸い上げる。じん、という痺れに、胸元へ花弁を散らされたのが分かった。
乳首のあたりを柔らかく触られる。思わず背筋がぞくぞくして、腰を持ち上げるように体をくねらせてしまう。
「んっ、ぁふぅ、んあーっ、あぁんっ」
「良い声。もっと聞かせて」
熱っぽい囁きに、おかしくなってしまいそう。
稔二さんの大きな手がショートパンツの上から臀部をなぞった。私は体を震わせて、甘美な衝撃に備える。
でも。その続きは、どれほど待っても訪れなかった。
「みのる、さ……ん?」
寝息が聞こえる。ほとんど意識を失うように、彼は眠りに落ちていた。
「どうし、よ……」
彼の手がすぐそばにある。ちょっとでも動いたら、自分の体に触れてしまうだろう。
でも、何とかして離れないといけない。
いっそ稔二さんに私が裕理だと話すべきかもしれない。そうすればねじれた状態はきれいになって、私は私として彼に向き合える。
体を離そうと腕を伸ばした瞬間。稔二さんの両手が、私を強く抱きしめた。
「……ゆうり、あいしている」
寝言に混じった声に、生理的ではない涙がぽろぽろとこぼれてきた。
刹那。
あれほど何も考えていられなかった頭の中で「嫌だ!」と、ユウの声が響く。
―― ああ、私。ユウのまま、どんどん稔二さんを好きになってしまったんだ。
また彼に恋をして、その恋の重さが前よりずっと重くなっていく。彼を愛している。愛しすぎてしまうくらいに。
そのくせ、稔二さんを信じることが怖い。私を手駒としか見ていない彼に、裕理となった瞬間に戻ってしまったらどうしようかって。
あなたに愛されたい私なんて、いっそ消えてしまえばいい。裕理という私なんて、消えちゃえばいい。
ユウになれたら。稔二さんのために仕事ができて、この船の中で頼られていくのに。
彼と対等に、目の前で話ができるのに。
でも稔二さんは、一度たりとも、ユウと呼んでくれなかった。
結局。私が彼の腕から抜け出せたのは、朝方になってからのこと。
一睡もできなかった体には、彼から与えられた熱が強く残っていた。
~~~~
翌朝。稔二さんは何も覚えていない様子だった。
いや、覚えていない方がいい。なんだか少し寂しくも思うのは、今の私がユウだからと自覚しているせい。
彼が覚えていないのなら、その通りに振舞おう。
「はい、では次回の打ち合わせは……」
電話をする稔二さんはとにかく忙しそうで、休暇もかねての乗船だなんて少しも信じられなかった。
本来、彼は現場でこんな風に動くような立場ではない。
稔二さんの役職は、会社全体にかかわる資金の流れや配分を判断すること。
パーティーへの出席や取引先への接待など、一見すると現場とは関係のない出来事でも仕事に繋がる。
だから私には真っ先にパーティーでの立ち居振る舞いを身につけるように促したんだなぁ、って、最近やっと納得し始めた。
そんな稔二さんが現場に出るなんて、今回の依頼はかなり大掛かりなものみたい。
ひたすら書類やタブレットとにらめっこな彼をちらりと横目に見て、私は仕事に戻る。
すると鈴村さんが端末を手に稔二さんの方へ向かった。
「稔二さま。先ほどマニラ・トレード社の社員さまより、お問い合わせがありました。内容は、来月予定の契約に関連する……」
聞こえてくる会話を小耳にはさみながら、隣室のバーカウンターを整備する。
そして船内の情報がリストアップされる端末から、マニラ・トレード社について調べた。
思った通り、フィリピンの会社みたい。ニュース記事がいくつか並んでいる。
冷凍食品の取り扱いに特化した商社。日本企業との関係も深い。かなりの日本びいきな社長さんみたいで、日本酒を扱う大きなパーティーを開催したという記事もヒットした。
このあと、船はフィリピンのマニラ港へ向かう予定になっている。
現地の取引先とやり取りをする機会もあるかも。
ふと思いついたことがあり、奥の部屋に戻る。
クリアエッジで清掃の仕事を始めた時から、私にはずっと胸に一つの想いを抱いて清掃に向き合ってきた。
清掃した場所を目にした人、その場所で過ごす人、いろんな誰かにとってその一瞬がより良い時間であってほしい。
何より。忘れるにはあまりに短い時間だけど、昨夜の熱を思い出さないようにするには、仕事に没頭するのが一番だと思っていた。
思い付きを叶えるために作業に励んでから、数十分後のことだった。