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03



 サクッ、とした衣の歯ざわり。ジューシーな白身。程よい塩気……。


 これこれ、って感じの味に頬が緩んでしまう。


 続けざまに炊き込みご飯のおにぎりを頬張ると、頬っぺたの内側がきゅーっと絞られるような感じがした。


 口の中も、私があんまりにも美味しいって感じているせいで、びっくりしたみたい。


 そのまま二口目のフライにかぶりついた時。


 気づくと稔二さんが頬杖をついて、こちらをじっと見つめていた。


「し、失礼いたしました!」


 顔中を赤くしながら、もごもごと言いつつ顔を伏せる。すると。


「気にしないで。たくさん食べて」


 にっこりとほほ笑む稔二さんに促された。どうしよう、という気持ちと食欲がぶつかり合う。


も、召し上がってください」


 咄嗟に口をついた彼への呼びかけに、赤かった頬から一気に血の気が引いた。


 なんてこと。電話のときも、その前も、ずっと文月さまで通せていたのに。


「申し訳ございません!」


「何が? 気にしてないよ」


 くすくすと笑った稔二さんがフライを口へ運ぶ。じっくりと噛み締めてから、うんうん、と頷いた。


「……なるほど。これは、美味しいね」


 私が何か言うべきだと考えているうちに、稔二さんはみそ汁を飲みながら言う。


「ユウさん、この時間は君の勤務時間じゃない。だから気にせず、俺のことも『稔二さん』で構わない。食卓の上では対等でいよう、どうだい?」


 胸の内側で彼への想いが膨らんで、どんどん苦しくなる。


 裕理としての私はここにいるのに。

 ユウとしての私だけが、彼と対等になるなんて。


 そんなの許せない。そんなのダメ。

 ううん、彼に怪しまれちゃいけない。稔二さんは私を、ユウだと思っているんだから。


「……わかり、ました。では、稔二さんとお呼びしますね」


 私は私自身に負けてしまった。そんな気がした。




~~~





 夕食が終わった後。私は稔二さんが片づけをする様子を見たまま、デザートを食べるよう強制されていた。


 チョコレートのケーキ。どっしりとしたバタークリームだけど、軽い食感のスポンジのせいか、ついつい食べ進めてしまう。


 すると稔二さんがスマホを手に取って数秒眺めてから、こちらを振り返った。


「ユウさん。少しラウンジに出かけてくる」


「かしこまりました。片づけを引き継ぎますね」


 ウキウキした気持ちで立ち上がる。彼の役に立ちたい、という想いが大きくなっていくのが分かった。


「すまない。松恵さんにも言ってあるけど、先に寝ていて構わないから」


 苦笑する稔二さんが足早に部屋を出ていく。私はそんな彼を見送りかけて、ふと足を止めた。


 ダメ。私は裕理じゃない。そういう立場でいるべきじゃ、ない。


「ユウさん」


 声がかかる。手を差し伸べてきた稔二さんが、私の頬におしぼりを軽くあてた。くすりと笑う彼が言う。


「クリームが付いたままだよ」


 どうしよう。頭の中でぐるぐるといくつもの考えが巡っているのに、一つたりともちゃんとした言葉で認識できない。


 頭の中が真っ白なまま、永遠に何かを考えている感じがする。


「あ、ぁりがとう、ございます……」


 もぞもぞと返事をすると、稔二さんはますます嬉しそうに笑みを深めて、立ち去った。


 片づけに専念しようと振り返る。ダイニングルームに備え付けられたキッチンには食洗器もあり、汚れも決してひどくなかったので、大掛かりな掃除は必要そうにない。


 顔中が真っ赤。首筋も真っ赤。私の心臓はおかしくなってしまったみたい。


「そうだ。テーブルもきれいにして、それから……」


 稔二さんの行動の意味を考えたくなくて、私はひたすら目の前のことに集中した。

 それから。私が備え付けの部屋でシャワーを浴び、就寝用意をして、鈴村さんと「おやすみなさい」を交わしても、稔二さんが戻ることはなかった。



―― 深夜三時。スタッフルームの外から、物音が聞こえる。


 稔二さんが帰ってきたのかもしれない。目を覚ましてしまった私は、そーっと部屋を出た。


 出たところで、ハッとする。


 今の私は、ナイトブラの上にTシャツ、それからショートパンツというラフな服装だった。急いでシャワールームにあった未使用のバスローブを身にまとう。


 室内は間接照明が灯っているだけで、稔二さんの姿はなかった。


(なら、鈴村さんが起きたのかな)


 そう思いながら数歩だけ足を進めたとき。ソファから、ゆらっ、と白い左手が伸びた。


 びっくりして立ち止まる。誰かがソファに寝ているみたい。鈴村さんじゃなさそう。男性の骨太な、がっしりとした手。薬指に輝くのは、結婚指輪だった。


 よかった、稔二さんだった。

 一瞬だけ、幽霊や他人だったらどうしようかと思ってしまった。


 ホッとしながら近づくと、ワイシャツをはだけた稔二さんがソファに寝転んでいる。ずいぶんお酒を飲んだのか、靴を脱ぐ暇もなく横たわってしまったみたい。


 このままじゃ服にしわが付く。思わず「稔二さん」と声をかけながら近づこうとした、その時だった。


「ゆう、り」


 私だけど、私じゃない。耳に慣れたはずの名前を呼びながら、稔二さんの手が私をソファへ招きこむ。


 シャワーを浴びたから、私はノーメイクだ。だからユウじゃなくて、裕理として認識されたのかもしれない。


 ひどく幸せそうに微笑んだ稔二さんの顔が間近にあって、時が止まったようだった。彼の熱が、手のひらを通じて伝わってくる。


「おかえり、ゆうり」


 花びらみたいに言葉を宙へ舞わせた稔二さんが、私の顔を両手で包み込んだ。


 近づいてくる唇が、悪魔みたいに私を誘惑する。そのまま、静かに唇が重ねられた。


 熱い、あつい。熱くて、溶けていきそう。


 口の中で舌先が触れ合った瞬間、体中に幸せと気持ちよさがごちゃ混ぜになった感情が迸る。

 一年前、最後に稔二さんと過ごした夜を思い出した瞬間。下腹部に熱が駆け巡った。


 稔二さんの目は今まで見たこともないくらい熱っぽく、私の顔を見つめてくる。視線だけで「愛しい」と刻み込もうとするように見えるのは、私が彼をまだ愛しているせいなのか。


 大きな手が私の頬をなぞる。バスローブは自然とはだけてしまい、彼の体と密着していく。

 薄いTシャツとショートパンツ、それから下着。全部、ぜんぶ、頼りない。


 一番頼りないのは、私の理性。


「うれしい。ここに、ゆうりが、いる。ゆうりが……」


 甘く囁きながら稔二さんが何度も私の頬へ、唇へ、キスを送る。



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