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02



 午前中。稔二さんはプールへ向かった後、朝食用のサンドイッチを片手に仕事を続けていた。


 そして午後。軽い昼食をとった後は、船内のパーティーに参加。この時、乗船なさっている方々と話をしていたみたい。


 パーティーを終えて部屋に戻ってきた稔二さんは、グレーのスリーピース姿。


「ユウさん。夕食の予定はあるかい?」


 尋ねてくる彼は、緩く波打つ黒髪を、なんとオールバックにまとめている。日本人らしからぬ甘い顔立ちが、とても引き締まって見えた。


 さらに白いシャツは胸元が思った以上にはだけられている。筋肉質な胸板がちらりと見えて、思わずドキッとした。


 かっこいい。


 ううん、そんなことを思っちゃダメ。


 慌てて感情に蓋をする。


「何かご入用でしょうか?」


「よかったら、この前みたいに、君と話しながら夕食をとりたいんだ」


 私は少し黙って断ろうと言葉を探す。しかし。


「頼むよ。この前みたいに、妻にかかわる話なんだ」


 と、言われてしまい、頷くしかなかった。


―― ひょっとしたら、私がユウではなく裕理だとバレたのかもしれない。


 ドキドキしていると、稔二さんが言う。


「制服は着替えておいで。夕食は、リラックスして食べた方が楽しいだろう?」


 その後の仕事は、と問いかけたくなったけれど、マネージャーに言われたことを思いだした。


 理論と行動。


 稔二さんのお誘い。もしかして、彼なりに何か想いがあって起こしている行動ということ?


「……かしこまりました。お時間は何時頃にいたしましょうか?」


「七時にしよう。プライベートダイニング、だっけ。キッチンが供えついている部屋に来てくれ」


 私は彼の言葉に頷く。前回はこの執務室代わりの部屋で食事をしたのだっけ。


 時間まで仕事を続けたあと、スタッフルームに戻った私は制服を脱ぎつつ、持ち込んだ衣服に着替える。


 前回の長期休暇のとき購入した、シンプルなジーンズ生地のワンピースだ。


 基本的にクルーズ船の清掃係は週七日フル稼働。特別なタイミングでなければ連続休暇はもらえない。


 私の場合は四か月に一回、おおよそ二か月の長期休日がもらえた。


前回は日本に戻ったあと、マンスリーマンションを借りて、一人で過ごしたっけ。


 何をするでもなく……ただぼんやりとして、たまに英会話のレッスンをオンラインで受けて、その繰り返し。


(でも外出は必要になるから、慌てて買ったんだっけ……)


 ほかにおしゃれそうな衣服は持っていない。ワンピースを着てから、メイクを確認する。


 あまりにも幼く見られるので、つい濃いめにしていたメイク。


 ファンデーションを直した後、アイラインをもう一度濃いめに引く。寒色のマスカラをわずかに乗せた。


 もっとらしくなった私が、鏡の中で笑っている。


「文月さま、お待たせいたしました」


 部屋の外に出るも、稔二さんはいなかった。


 そういえば、と思い出してプライベートダイニングルームのある方角へ向かう。


 近づくほどに何か、お出汁のような香りが漂ってきた。


「ユウさん。こっち」


 声がする方へと向かうと、テーブルに稔二さんがランチョンマットを引いている。


 さらにキッチンには鍋やまな板があって、食材を切ったり、食器を洗ったりした跡がみられた。


 戸惑いながら私は稔二さんの様子をうかがう。


 彼は黒いエプロンを腰に巻いて、どう見ても先ほどまで料理をしていたみたいだ。


 稔二さんが料理?


 見たこともないし、考えたことすらない姿に驚いてしまう。


 思わず立ち尽くしていると、稔二さんが言った。


「どうぞ、座って」


 椅子を引かれて、かつて彼にエスコートされたのと同じ感覚に体が反射的に動く。


 席へついた時にはもう遅かった。稔二さんは背を向けていて、料理をする姿勢になっている。


稔二さんはテーブルに料理を運びながら、どこか緊張した様子で言葉を続けた。


「お口に合うと良いんだけど」


 彼からイメージしたイタリアンやフレンチとは異なり、私の前に用意されたのは和食。


 それも、日本の一般家庭で出そうな、私にもなじみのあるご飯。


 わかめと豆腐の入った味噌汁。油揚げと野菜入りの炊き込みご飯は、三角形のおにぎり。


 そしてレタスとプチトマトが添えられたお皿には、こんがりと柴犬みたいにおいしそうに揚がった半月型のフライがのっている。


「えっと。文月さまが用意してくださったんですよ、ね?」


「うん。俺だって料理くらいはするさ」


 自分の考えを見透かされた気がして、ドキドキする。


 でも稔二さんなら、パスタとか作りそうだけど。


「学生時代はロスの大学にいたんだ。学食は嫌いじゃないけど、和食が急に恋しくなってね。とはいえ、食べに出歩いていたら食費がかかって仕方がない。それで簡単なものから作り始めたんだ。最初はインスタントのみそ汁。炊飯器を買ったのはずいぶん後だったっけ」


 思い出すように語る稔二さんに、私は胸の奥が熱くなるのを感じていた。


 彼に過去を話してもらえたのは、ほとんど初めてだったから。


「それでね。今回は本当は焼き魚にしようかと思ったんだけど、ふとユウさんの話を思い出して、冷凍の白身フライを試したんだ」


「やっぱり!」


 声をあげてしまい、私は慌てて口元を抑える。


 白身フライはスーパーのお弁当の定番。私にとってはなじみ深い食べ物。


 もちろんお母さんともよく食べたっけ。


「今回の仕事は、こうしたクルーズ船でも日本の冷凍食品を活用したいというシェフの声から始まったんだ。シェフは高級な食材ばかりでなく、日本の冷凍餃子とか、一般的に販売されているものも用意したいと言ってね。不思議に思ったから、実際に食べてみようと感じたんだ」


 彼にすすめられて、私は箸を手にした。


 箸は割り箸ではなく、ちゃんとした塗り箸だ。箸置きは木製で魚の形をしている。


「い、いただきます」


「どうぞ、召し上がれ」


 本当はお味噌汁とか炊き込みご飯からいくべきかもしれない。


 でも私はこんがりとした白身フライの魅力にあらがえず、ソースもつけずに口へ運んでしまった。


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