翌朝。私は稔二さんの部屋のスタッフルームで、荷物を整理していた。
稔二さんが【アクア・プラチナム】で仕事をおこなう期間は、およそ二週間。私はこのスタッフルームで寝泊まりし、稔二さんが滞在する部屋の清掃に取り組む予定となっていた。
鈴村さんが言うには、二週間という滞在期間は、休暇も兼ねているのだそう。
だとしたら彼にとっては最悪な休暇の始まりだっただろう。部下は犯罪を犯し、離婚を一方的に要求する妻に電話をかける羽目になるなんて。
本当に今日から稔二さんとの日々が始まるかと思うと、どうしてこんなにも事態がこじれたのかを考えてしまう。考えても無駄なのに。
荷物整理の手を止めて、この部屋へ来た時のことを思い出した。
訪れた時と同じように美しいスタッフルームへ荷物を置くと、マネージャーが話し出した。
『文月さまは、プールにて日課の水泳をおこなっているそうです。戻るまで一時間ほどありますから、最終確認をおこないましょう』
『はい!』
チェックリストを元にマネージャーからの確認を受けていく。何度もチェック時に指摘を受けた、水を使わず静電気などで埃やチリを掃除するダストコントロールという掃除方法の場面では、思わず肩に力が入ってしまった。
何とかすべての工程を終え、マネージャーからの審査を待つ。
『……短期間でよくマスターしました。それで、ユウ。いいえ、
本名を呼ぶマネージャーに、私は姿勢を正す。
『あなたが離婚を決意した後、この船で働いていますね? 今回の文月さまからのお申し出は、プライベートな事情を含むことでしょう』
マネージャーの目を見つめて深く頷いた。
『はい。その通りです』
『では、私から一つアドバイスを。男性は言葉を尽くして共感を示すのではなく、理論と行動で示しがちです。旦那様があなたにとった行動も、その一つかもしれません』
マネージャーはそう言うと、時間が来たからと言って立ち去ってしまった。
丸い窓の外を眺めると、太平洋は一面、太陽の光でキラキラと輝いている。
理論と行動。私は二つの単語の意味を考えてみた。
思い出すだけでも苦しいけれど、稔二さんは私のことを言うことを聞く人形のような妻に仕立てられると思っていた。彼の中に『手駒として妻が必要だ』という理論があって、その通りに行動した?
「ユウさん。よろしいかしら?」
部屋の外から鈴村さんの歯切れのよい声が聞こえてきて、私はすぐさま手を止めて部屋を出る。
「はい。どうなさいましたか?」
「ありがとう。夜間のことについて、少しお話があるの」
声を潜める鈴村さんに、私は頷く。
「稔二さまはこの半年ほど、夜間に眠れずに起きている時があるんです。もしかしたら音で目が覚めてしまうかもと思って」
ドキッ、とする。稔二さんの相貌がやつれてみえたのは、夜に眠れずにいたから?
「大丈夫です。もしお掃除が必要なら遠慮なくお声がけくださるよう、お伝えしますね」
「そうですか。……わたくし、寝つきがとってもよいので、もし気づかなかったらよろしくお願いしますね」
そう言うと、鈴村さんはテーブルに向かい、書類整理をはじめる。
私が初めてこの部屋で夜を明かした時も、稔二さんは私の些細な物音に気が付いた様子だった。
何か理由があって神経を尖らせているのかもしれない。もしかして私のことで?
そんなことはない。彼は私をユウという乗組員だと思っているはず。そうでなくちゃいけない。胸苦しさを覚えるけれど、私がユウでなくて裕理として稔二さんの前に立ったら、今日までの全てが台無しになってしまう。
気を取り直して室内のチェックを一通り終えるころに、稔二さんは朝の日課だというプールから部屋に戻ってきた。
「ユウさん! 引き受けてくれてありがとう。今日からよろしく頼むよ」
和やかな雰囲気で言う稔二さんは、襟ぐりの大きく開いた白Tシャツとゆったりとしたシルエットの黒いズボンという、驚くほどラフな服装だった。
おまけに髪の毛はまだ少ししっとりとしている。プールからあがってすぐなのかもしれない。
顔が赤くなってしまいそうで、まだ稔二さんを愛している自分に嫌気がさしてくる。
―― いいえ。もしかしたら私は、ユウとしても彼を好きになりかけているのかもしれない。
ふと思いついた考えに背筋がゾッとした。逃げたい私と立ち向かいたい私、二つの立場から一人の男性を愛するなんて、バカみたい。
「……ええ。奥様から許可をいただけたと伺いましたから」
少しだけ気を張って言うと、稔二さんが少しおもしろそうに話した。
「君の見立て通りだった。少し、ショックを受けたと妻は言っていたんだ。でも最後には俺を信頼して任せると言ってもらえた」
「なら、その信頼を裏切ってはいけませんね」
ついからかうような口ぶりになってしまい、慌てて口をつぐむ。しかし稔二さんは少しも気を悪くした様子が無かった。
「ああ。裏切らないよ、もう二度と」
真剣な目で、まるで私に言い聞かせようとする彼に、鼓動が速くなるのが自分でもわかった。
でも気づいた素振りは見せずに、私は仕事に集中しようとする。やるべきことは山のようにあった。だって、稔二さんはこの船に仕事と休暇、二つの目的で来ている。
六つある部屋のうち、一つは商談のために整え、それ以外の部屋はリラックスできるよう、専属担当のユウとして最善を尽くす。
でももしかしたら、これは裕理としての行動かもしれない。稔二さんのためになることがしたかった、そんな思い出を清算するための行動。
もしこうやって一つずつ、思い出が精算されたら、私はどうするんだろう。
二週間でユウとして彼を愛してしまわない確証もない。
だってユウは、私自身でもあるんだから。
稔二さんが部屋の奥に去っていく。着替えをする様子に慌てて視線をそらしたけれど、まだ胸のうちが痛いくらいに鼓動が速い。
叶わないと分かっていても、いっそ時が止まればいいと、願わずにはいられなかった。