夜が来た。
スタッフルームが並ぶエリアの奥にある電話用のボックスに入り、私は静かにその時を待っていた。
プライベートな話もできるように設けられたボックスは、しん、と静まり返っている。
船に戻ってすぐ。稔二さんから『今夜の十時に電話がしたい』というメールが真新しい通知として私のスマホに届いていた。
ボタン一つで運命が決まってしまう。電話に出ることも、電話がかかってきたら切ることもできる。
時刻は十時。秒針が鳴る。
「……きた」
私は振動するスマホを手に取り、三コール目で電話に出た。さーっ、と短い音が鳴り響く。
「もしもし、稔二さんですか?」
できるだけ感情が高ぶらないように、静かに声を出した。
『裕理……』
耳朶を揺らす声が響く。どうしようもなく涙がこみあげて、私は口元を抑えた。頬に伝わる涙が熱い。それくらい涙が止まらない。
体中で血が沸騰しているんじゃないかと思うほど、体中が熱かった。
ユウじゃない。裕理として、稔二さんに名前を呼ばれている。たったそれだけで私は彼にすべてを奪われても構わないと思ってしまった。
だから離れる必要があったし、触れられたくなどなかった。
触れられて名前を呼ばれたら、その瞬間に私は稔二さんの腕に飛び込む自信がある。
でもすぐさま、彼が語ったことを思い出して苦しくなるに違いない。
『ありがとう。電話を受けてくれて』
「ごめんなさい。ずっと答えられませんでした。メールも電話も気づいていたんです」
息を飲む声が聞こえる。しばらくして稔二さんが話し始めた。
『……わかった。君と向かい合うための、その一歩として、どうか話をもう少しだけさせてくれ』
「なんでしょう?」
『仕事で乗船する船で、松恵さんの手伝いにぜひと望むようなスタッフに会ったんだ。若い女性で、裕理と同い年くらいだと思う。彼女に船にいる間、部屋の掃除を任せたいんだが、裕理はどう思う?』
私はユウとして彼の前に立つことで、自分の気持ちに蹴りを付けようと考えていた。でもいざ、稔二さんに尋ねられると、ショックなようにも感じてしまう。
自分と同い年の女性を、どうして。私は何も仕事を任せてもらえないのに。
『裕理の素直な気持ちを聞かせてほしいんだ』
「少し、ショックを受けました」
『そうか。なら、やめておこう』
あまりにもあっさりと稔二さんが言うから、私は後悔に似た感情に襲われた。
私が向き合わなかったから、稔二さんとの関係はこんなにもこじれてしまったように思えて仕方ない。
ユウという存在しない第三者を作ってしまったばっかりに。
「っ、でも。でもそれで、稔二さんや鈴村さんに負担がかかるのは嫌です。私はあなたの力になりたかった……ならせてほしかった……」
『……その女性は裕理のように俺を助けてくれる。ユウ、というんだ。彼女は君の延長線上にいる。彼女が俺のためになるとき、君も俺のためになっている』
私はただ黙っていた。分かりました、と、まだ言えそうになかった。
『あの置き手紙を読んだよ。君にひどいことをした、心の底から悔いている。俺は自分が見たいものしか、見ていなかった。けれど君に本当に悔いていると理解してもらうにはあまりにも距離がありすぎるし、俺は信頼を失いすぎた……』
「読んでいただけて嬉しいです。どう、お考えですか? 離婚について」
改めて言葉にしたとき。胸を鋭いものが突き抜けて、私の奥底にある感情を粉々に砕くのが分かった。
彼に愛されていないことを、今後の結婚生活で何度も思い知らされる人生なんて、過ごしたくなかった。真実を知るまでの日々だけを人生のよすがにして生きていく方が、何倍もマシだと思って逃げてきた。
でも違う可能性があると分かった瞬間に、希望だったはずの離婚という言葉が恐ろしいものに聞こえてくる。
電話口から衣擦れの音が聞こえる。たったそれだけで、気持ちが昂るのが分かった。昼間はあんなふうに話せたのに。
『離婚を望まれても仕方がないと納得している。だけど、改めて話し合う時間が欲しい。君が目の前にいる状態で。今は何を話しても、君に少しも伝わらない気がするんだ』
そうかもしれない。
『でも君がまだ実際に会う気持ちになれないのなら、いくらでも待つよ。俺はそのつもりでいる』
「どうして?」
問いかけながらも、私は心のどこかであきらめていた。理由を「愛しているから」と言われても、信じられない自分がいると分かっていたから。
『君が会う気持ちになれないからだ。君の気持ちが落ち着いて自然と話し合いを望む日を待ちたいんだ』
疑いたくなる気持ちが吹きあがる。また私は騙されるんじゃないかって。
でも同時に、稔二さんが変わりつつあることも、感じ取っていた。
ひどく苦い塊を喉の奥から吐きだすように、私は話す。
「あなたに愛されていないと知っているんです。自分の思い通りになる妻を手に入れたと、友人に語っていましたよね。手紙に書いた通りです。だから、どうしても、あなたがそうおっしゃることに、疑いの気持ちが消えないんです」
『分かっている』
感情が昂っているせいか、稔二さんの声が反響して聞こえた。彼はどこにいるんだろう。船の中なのは確実だけど。
「いいえ! 分かってません。稔二さんは……わかってません……」
涙がまた溢れ出した。感情が決壊する。
「ごめんなさい。でも分かってません。あなたを見た瞬間、とてつもなく心を惹かれました。恋なんてしたことない私が、ドキドキしたんです。初恋だったんです」
特別な感情を抱きすぎているという自覚はあった。
ずっと私の人生には、家族とそれ以外しかなかった。だから稔二さんはとても特別な相手になってしまったんだと思う。
「あなたに愛されたと感じた私がどれほど幸せだったのか、稔二さんは一ミリも分かってない!」
涙が止まりそうにない。私は息を整えて、稔二さんへ突き付けるように言い放った。
「だから。証明してください。私を待ち続けるって、証明してください。ユウさんに掃除を任せるのは承知します。それは、私からの、あなたへの信頼です!」
『ああ……肝に銘じるよ。おやすみ裕理。どうか体に気を付けて』
数秒だけ黙り込んだ稔二さんとの通話が、途切れる。
おやすみなさい、と言えばよかった。
涙をハンカチで抑えながら、私はしばらく電話ボックスの中でじっとしていた。
スタッフルームに戻ったら、心配されそうなくらい泣いている。トイレかどこかで時間をつぶしていこうと決めた。