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 潮風が髪を揺らす。ベンチへ座るべきか、それともまずは稔二さんにベンチへ座るよう勧めるべきかしら。


 楜沢さんや琴浦さんの前ではちっとも気にならなかった服装やメイクが、ひどく気になりだす。


ゆったりとしたネイビーのブラウスと白いズボンに、パンプス。最低限のメイクだけの自分で稔二さんの前に立つなんて、を除けばほとんど初めての経験だった。


 彼に会うかもしれないと思うとメイクも自然と気合が入ったし、文月家に嫁いでからは一層気を遣っていたから……。


 まごついているうちに、稔二さんが言う。


「立ったままでは、聞いてはいけない話に思える。もしユウさんが許してくれるのなら、話してみてくれるかい?」


 ベンチへ座るよう促す言葉は、私へ伺いを立てているのに、命令の色を帯びているように感じられる。


 分かっていた。私が単に彼からの言葉に過敏に反応しすぎているだけで、普通の人なら特に問題なく意思決定できる程度の口調だ。


 それに。やっぱり稔二さんは私をユウと呼んでいる。


「……彼は、ええと、さっき一緒に話していたのは同じ会社の先輩です。愛妻家としてとても有名で、彼に恋愛相談をしたんです」


「愛妻家の男性に? その。こう言っては何だが、彼に対して少し、配慮に欠けた行動だったかもしれないね」


 稔二さんは眉をひそめ、続けた。


「彼の奥さんが恋愛相談を、後輩とはいえ女性から受けている夫を見たら、どう思うだろう? 関係を誤解されたら、君の会社での立場はもちろんのこと、相手の家庭まで破壊してしまうかもしれないよ」


 私は大きく息を吸って、それからうなだれた。


「返す言葉もありません……自分の中に余裕がなくて、つい先輩の好意に甘えてしまったんです」


「そこまで気にしていないように見えたから、きっと大丈夫さ」


 勇気づけるように言う稔二さんに、私は視線を向ける。恋愛相談の原因があなただと言ったら、この人はどう反応するのだろうか。


 先輩は結婚の理由を、お互いの人生に責任を持ちたいからと言っていた。正直、私の中には無かった考え方だった。


 私は稔二さんを愛していたから結婚に踏み切ったし、彼の役に立てるのならどんなことだってするつもりだった。


 一方の稔二さんは私に対し、愛こそなかったかもしれないけど、人生への責任という意味では彼の方が誠実だったと思う。何もない私に比べたら、財力も地位も十分で、尊敬できるはずの相手だったから。


 でもやっぱり、私は愛してほしかった。

 だから離婚を願った。


(愛されたいから? 本当にそれだけだったの?)


 自問自答の繰り返しが渦のように頭の中を駆け巡る。稔二さんに不審がられない程度に会話を続けたいのに、口が動かない。


「ところで……君に個人的な依頼があって来たんだ」


 稔二さんを見上げた瞬間、顔が急激に熱くなる。


 彼の目は、驚くほどきれいに見えた。


 初めて出会ったあの日と同じように、私の心臓が激しく脈打つ。


 私の人生に突然現れた雲の上の様な存在の彼と、深く愛し合っていると思わされる日々の始まりと同じようだった。


 乾いていく唇を必死に動かし、尋ねる。


「個人的な依頼? あの、もしハウスキーパーといった内容でしたら、私はまだ船での仕事を続ける予定でして」


「それは、都合がいい。実は仕事で【アクア・プラチナム】にしばらく乗船する。松恵さんは自分の秘書で、彼女にはぜひ仕事に集中してほしいんだ。だからその間、どうかとなってもらえないだろうか?」


 驚いて私はしばらく身動きできなかった。


 専属担当は清掃スタッフが提供するサービスの1つ。

 通常のシフトと異なり、その人が希望すればいつでも清掃係として対応するという役割。


 肉体的にも精神的にも大変だが、十分な仕事をこなせばチップをもらうこともできる。何より、清掃スタッフとして技術や人間性に大きな信頼を寄せてもらえている証明でもある。


「ちょ、ちょっと待ってください。どうして私を? こう言っては何ですが、私はまだ未熟です。トップクラスのサービスを望むのなら」


「いいや。君の働きぶりは、ダグラスからもよく聞いている。それに実は……紹介してくれたチーズバーガーが決め手なんだ」


 立て続けに起きた事態と、昨夜からの疲労で言葉がうまくまとまらない。


 ただ確かなのは、稔二さんが私に、仕事の話を持ち掛けていること。


 そんなこと、ありえるなんて思いもよらなかった。


「クルーズ船へ乗ったのは、船内で日本クオリティの冷凍食品を活用したいというシェフからの相談がきっかけだ。ただ正直、自分は食事についてそこまでこだわりがない。でも君の思い出を聞いて、君といればよりよい仕事ができると感じた」


 稔二さんはまだ何か話したそうにしている。私は彼の言葉を最後まで聞くべきか、今すぐにノーを突き付けるべきか悩んだ。


 潮風が吹き抜ける。隣に腰掛けた彼のそばから、嗅ぎなれてしまった香水が華やかに漂った。


 私は彼の胸に抱かれたこともある。その両手で胸の先端を撫でられて、もっと奥深くまで。何より女性としての初体験は、彼に捧げてしまっている。


 体中にさざ波のように心の高ぶりが広がって疼く。


「掃除についてはクオリティは求めない。不十分な面があれば、松恵さんがカバーしてくれるだろう」


 そんなのダメ。私はかぶりを振った。


「専属担当は清掃のプロが勤めるべきです」


 私はベンチから立ち上がり、距離をとる。両手をお腹の前でそろえようとしたけど、かえって気取ったように見える気がして、腰を両手に当てて稔二さんをじっと見つめることにした。


「それに。先ほどあなたが教えてくださいました。男女の関係を誤解されたら、相手の家庭まで破壊してしまうかもしれない、と。あなたの指には……結婚指輪があるように見えます」


 稔二さんはどう返事をするだろうか。


 試すような質問をした自分が怖い。稔二さんにこんな風に向かい合うなんて、ちょっと前には予想もしていなかった。


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