みなとみらいの景色を前に、私は展望台でのひと時を過ごす。
私からの要望で【アクア・プラチナム】には継続して務めさせてもらうことにした。
でもあまり長く時間をかけようとは思わない。偽名とはいえ稔二さんに会ってしまった以上、バレている可能性もあるからだ。
離婚がゴールじゃない。私は離婚をきっかけに、何かを求めている。
あるいは、求めているものに近づくために、離婚を考えている。
そのためには……。
「おーい。裕理!」
聞き覚えのある声に、私は立ち上がった。視線を巡らすと、背の高い40代くらいの男性がこちらに手を振っている。
見覚えのある顔。間違いない。
「
小走りになって駆け寄る。男性……楜沢さんは、私の【クリア・エッジ】におけるクルーズ船関係の先輩だ。
「あっ、珍しい。指輪付けてますね!」
思わず声をあげる。楜沢さんの左手の薬指に、キラキラと輝くプラチナリングがあった。
彼が担当するのは、船体に付着するフジツボの除去など、特殊な技術が必要な清掃業務だ。
だから万が一のことがあってはいけないと、いつも左手の結婚指輪を外して掃除にあたっていた。
「バレちゃったか。今日は引継ぎだけで清掃業務がないんだ。だからつけてる」
満足そうに微笑む楜沢さんに、私も思わず笑顔になる。
仕事熱心な彼は愛妻家としても有名。
大学生のころから付き合っていた彼女さんと結婚し、今では二児のお父さん。
そんな彼が結婚指輪をつけている時、とってもわかりやすく機嫌がよくなる。
楜沢さんがふと、私の顔を見つめる。そして小さく首を傾げた。
「あの。俺の勘違いだったらそう言ってほしいんだけど、何か悩み事?」
あまりにもずばりと言われてしまい、私は口をつぐんで俯く。すると楜沢さんは、わあわあと慌てながら両手を拝む様な形で合わせた。
「ごめん! なんだか、裕理さんの顔周りが、こう、モヤッとしているというか……。その、嫁さんが悩んでいる時と雰囲気が似てたんだよ」
やっぱり愛し愛されて結婚すると、そういうのも敏くなるのかもしれない。
私は意を決して、尋ねた。
「楜沢さん。けっ……いえ、恋愛相談って乗ってもらえますか?」
彼は目を丸くして、
「ほんとに悩んでたの? 可能な範囲で答えるけど?」
と、聞き返してきた。私は頭の中で考えをまとめる。
「楜沢さんは奥様と長く付き合ったから、結婚なさったんですよね」
「いいや?」
あっさりと否定されて、二の句が告げなくなった。
私は最初から稔二さんに結婚を前提に求愛され、そしてお嫁さんになった。
でも先輩はずっと恋人同士でお付き合いしてたから、だからこそ結婚したわけじゃないの?
疑問が顔に出てしまったみたい。先輩は私にベンチへ腰かけるよう勧めてから、話をする。
「実のところ。俺と嫁さんが一緒に生きていくだけなら、他人で十分なんだ。お互いに働いているし、友達もいる、親や兄弟との関係も良好だ。それでも結婚を選んだのは、お互いの人生に責任を持ちたかったから、かな」
「お互いの人生への責任?」
「うん。たとえば俺が病気になったとき、嫁さんが手術とかの決定権を持てる。それは結婚しているからだ。結婚は単に一緒に住むことじゃない。人生の苦しい時、困ったときも含めて、互いに背負いあうものだと思う」
胸の奥がズキンと痛くなる。私は稔二さんから、苦しみも悩みも、困りごとも、何一つとして背負わせてもらえなかった。
それは私が不甲斐ないから? いいえ、そもそも私にそうした役目を彼が期待していなかったから?
「……もし。これはもしも、ですよ。奥様と離婚を考えるとしたら、どんな時ですか?」
楜沢さんは私を真顔で見つめる。目がちっとも笑っていない。
胸の内から湧き上がる情けなさに、体がブルブルと震えてしまう。
「何があったか知らないけど、どういうつもりだ。──いくら君でも、そんな質問、失礼だろ」
咄嗟に声が出ない。
温厚な彼を怒らせてしまうような質問だと、私は気が付いてすらいなかった。
なんて愚かなんだろう。
謝るべき。すぐに、今すぐに。
カラカラに乾いて動かない口を、無理やりにでも開こうとした瞬間。
「……ユウさん?」
後ろから聞こえた声に、ハッとして振り返る。
立っていたのは、稔二さんだった。
彼がどうしてここにいるのか、私にはわからない。だけど、彼が今も【アクア・プラチナム】に乗船しているとしたら、いてもなにもおかしくない。
なぜなら船が停泊しているのは、この港だから!
楜沢さんはただの先輩。まだ私はユウだと思われている。でも、なぜか今度は船の中と同じようにはいかないような気がする。
稔二さんの口元や目つきには強い意志が感じられた。仕事中ではないにせよ、スーツでバチッと決めている。
彼の左の薬指に輝く指輪が、私を威嚇するようにきらめいていた。
顔を蒼ざめさせた私に、楜沢さんが左手を稔二さんへ見せつけるような形で、軽く肩を叩く。
「本当に何か、どうしようもないことがあったみたいだけど。結婚している人間に事情も明かさず
先輩が軽く手を振って、私から離れていく。
急いで立ち上がると、やっと口から声が出た。
「せ、先輩! 楜沢さん。本当に申し訳ありませんでした!」
「いいよ、気にしてない。それと」
楜沢さんは稔二さんをチラリと見てから急いで付け加える。
「悩みごとは急いで解決するに限る!」
手を振った彼が勢いよく走り出す。
その視線の向こうには、スラっと背の高い女性が待ち構えていた。楜沢さんの奥様だ。
私は自分の浅はかさを後悔するほかなかった。でも、事態は待っていてくれない。
「ユウさん。その……悩みごと、とは?」
尋ねてくる稔二さんを振り返る。大時化でカートごと引きずられそうになった時に似たどうしようもない感覚に、私は為すすべなく彼と向き合うしかなかった。