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16:Side 稔二


 青い制服を身につけた女性が、窓掃除をしている。マスクで顔の大半が隠れてもわかる、凛とした面立ち。こげ茶色の目、黒いショートカット。体格もあってか、女性というより少女と表現したほうがしっくりくる。


 しかしその手際の良さときたら、目を見張るものがあった。テキパキと窓掃除を進め、あっという間に二階の端から端までたどり着いてしまった。


 彼女の姿が見えなくなり、しばらくして三階の窓に再び現れる。またもや手際よく窓掃除を進める姿に、稔二はくぎ付けになった。


 理由はまるで解らない。どうしても彼女と話したい、そんな思いが強くなる。


 社長との面談までまだ時間があることを確かめた稔二は、迷わず待合室を出て、ビル反対側の三階を一目散に目指した。


 エレベーターを待つのももどかしく、階段を駆け上がる。三階に到着したが、息を切らしているところを見られたくなくて、少し遠くから彼女の姿を確かめた。


 青いユニフォームから伸びる手足は健康的で、マスクをつけていてなお、その面立ちの可憐さがうかがえる。腰に巻き付けたベルト付きのポーチが、スレンダーな体系を際立たせていた。


 どうしても。どうしても話しかけたい。こんな衝動は、稔二にとって生まれて初めてだった。


「すまない、ちょっといいかな」


 視線が合う。

 それからの自分の行動を、稔二は後悔したことなど、一度もなかった。


 彼女は自分にとって裕理が自分の妻として困ることなどないように、多くを与え、勉強させ、常に味方でい続ける。

 親戚中を納得させるために、裕理が美しく気品ある女性になれるよう、何の苦労もさせないようにと心を配った。

 すべては自分の地位にふさわしい妻であり、何の問題も起こさない『手駒』を仕立てるためなのだと、本心から考えていた。


 だが裕理が自分の元を飛び出し、初めて気が付いた。


 本気で裕理を愛していた自分に気づかず、傲慢にも彼女を『手駒』と考えて接したことで、世界で唯一無二の存在を失ってしまったのだ。


(俺は……本当にどうしようもないな……)


 心が沈むと、ユウの笑顔が脳裏にチラつく。


 稔二の心を苛むのは、裕理への贖罪の気持ちだけでなく、ユウへの申し訳なさだった。


 裕理と同じくらい惹かれる女性に出会ったのは、初めてのことだ。


 外見だけではない。船で働いていること、母子家庭に育ったこと、境遇があまりにも裕理によく似ていた。


 彼女を思わず部屋に引き留めたのは、少しでも裕理のことを思い出したかったから。


 ユウの語る母との思い出がこもったチーズバーガーは、とてつもなく美味しかった。


 裕理にも同じように思い出の詰まった味があったのだろうか?

 彼女は母親と一緒にもっと長い時間を過ごしたかったのではないだろうか?


――自分に頼るしかない都合のいい嫁になってくれると確信したから、俺は結婚したんだ。


 かつての自分の言葉に、稔二は心底あきれ、苦しみ、うなだれた。


 もう二度と同じ失敗はできない。

 慎重にことを進めなくては、裕理は今度こそ自分の元から離れていってしまうだろう。


 そう分かっているのに、脳裏にユウの姿がチラついている。

 彼女が笑う様子をもう一度見たい、もっと話したい。

 裕理がもう二度と自分の元に戻ってこなくなるかもしれないと分かっていても、ユウに会いたい。


 長い逡巡の末に、稔二は一つの決断を下した。


 スマホを手に、電話をかける。


「……琴浦社長。ええ、お久しぶりです。お願いがあります。裕理に手紙を出したいんです。彼女の乗る船を教えていただけませんか?」


『かしこまりました。現在、横浜港に停泊中のクルーズ船【アクア・プラチナム】でして……』


 稔二は目を見開き、復唱する。


?」


 まさか。一つの可能性がよぎり、自分の指先から血の気が引いていくのを稔二は感じていた。


 ユウと名乗った彼女。あれは、本当は裕理なのか?


 だとしたら納得がいく。ユウに強く惹かれたのは、相手が裕理だと稔二が強く直感したからだ。外見も、振る舞いも、何もかもが裕理を連想させてならなかった。

 さらにユウという名だと稔二が考えたのは、彼女の同僚と思しき女性が『ユウ』と呼んでいたからだ。ユウ自身がそうだと肯定したのは、同僚に名前を呼ばれてからだった。


 稔二を恐れた裕理が、咄嗟に偽名を押し通した可能性だってありうる。

 ダグラスが『ユウ』だと紹介したのも、乗組員を守るためなら当然だ。


 彼は呆然と立ち尽くし、それから力なく椅子に座り込んだ。


 彼女は自分にどれほど失望しただろうか。

 一目見て妻だと分かってくれない非情な夫だと知り、今まで以上に『自分は愛されていない』と感じたのではないだろうか。


 眼前が暗くなる思いがした。


『もしもし? 文月さま? どうなさいましたか』


 電話口の琴浦が気遣うように話しかけてきたのを耳にして、稔二は慎重に返事をする。


「……あ、あぁ。いえ。仕事で【アクア・プラチナム】に立ち寄っていたものですから」


『なるほど。裕理は諸事情で本日は下船しておりますが……お手紙を出されるのなら【アクア・プラチナム】が横浜港に滞在する三日間のうちの方が、確実かと』


 確定した、と稔二は思った。


 今朝は裕理の面影をユウへ重ねてしまいそうな自分が恐ろしく、あえて顔をあわせなかった。

 ハウスキーパー兼専属秘書の鈴村松恵からは、ユウが前日の事件について会社にも報告すべく、一度下船したと聞いている。


「分かりました。……ところで裕理は、自分に会った、と言っていましたか?」


 琴浦がしばらく黙り込む。彼女はゆっくりと、こう答えた。


『それは稔二様がご自身で確かめるべきと存じます』


 稔二は深く息を吸い込んだ。琴浦に礼を言って電話を切る。


 間違えるわけにはいかない。もう二度と、裕理を裏切ってはならない。


 彼はすぐさま今後の仕事の予定をチェックし、それから良き友であると信じている男――ダグラスに連絡を取った。


 船に空きはないか確かめるために。


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