事件について情報提供をおこなうべく下船した稔二は、横浜近くの文月商事の支社にて仕事の調整に当たっていた。
冷凍品の小口配送を可能とする新たな企業提携を目前としており、どうしても確認しておきたい情報がいくつかあったのだ。
今回【アクア・プラチナム】へ乗船したのも、船内で日本クオリティの冷凍食品を活用したいと考えるシェフと設備について現場で視察をおこなう機会とするため。
友人のダグラスが船長を務めていると知り、彼のおかげで仕事がスムーズに進んだかと思ったら、あの事件が起きた。
思わずため息をついてしまい、稔二は資料を閲覧していたタブレットを閉じた。
左手を頭上にかざす。薬指に輝く指輪が、むなしくきらめいた。
乗組員のユウを部屋へ連れ込み、暴行に及ぼうとした男──白川和人に、稔二は数年前に上司として仕事を教えていた。
かつて指導した部下の変貌に、稔二は強くショックを受けた。
彼のそうした暴力的な側面の片鱗にすら気づけなかった。もし気づいていたら今回の事件を阻止できたやも。
「いや、彼女の気持ちさえ分からなかった俺には当然のことかもしれないな……」
指輪を見つめるのを止め、何度も読み返した手紙を稔二は取り出す。
最近はA4サイズのクリアファイルに封じて、これ以上破れないようにしていた。
【稔二さんへ。
今までお世話になりました。
あなたが求めているのは、実家の関係良好で、いつなん時でもあなたの要望に応え、どれほど帰宅が遅くなっても不平を言わず、子育てをしてくれる従順な存在だったんですね。
ご友人へのアドバイスなら、もっと優しい言葉を選べばよかったのに。
私が二年間、あなたの妻でいた分だけ、不幸になる女性が減らせたことだけが救いです。
慰謝料などはちっともいりませんから、離婚してください。よろしくお願いいたします。
裕理より】
一年前に妻の裕理が残した手紙。それを見るたびに、稔二は深い後悔に襲われていた。
確かに当初は怒りにかられた。裕理はすぐに帰ってくるだろう。一時的なことだ。
そう考えて、稔二は離婚届けは出さずに待つことにした。
手紙を見つけてから三日。帰らぬ裕理に何度も連絡を入れるが、どうにも返事がない。
そこで稔二は元刑事で現在は探偵業を営む細崎七助を頼った。
依頼から一か月――彼はずいぶんと渋い顔をして、稔二の元へとやってきた。
「奥様は今、イギリスのサウサンプトン港にいらっしゃいます。清掃員として世界各地を転々としていらっしゃるようで、私も調べるには難儀いたしました」
そして細崎が稔二へ引き合わせたのが、裕理を雇っているという琴浦社長だ。
彼女は燃えるような眼差しで稔二を見つめながら、はっきりと告げる。
「奥様からは「夫と離婚することになったので、長期間の仕事が欲しい。できたら海外にも行けるような」と承りました。しかし離婚された様子がないので気になってはおりましたが、プライベートなことですので……」
そう言われて、稔二は裕理が本気で自分から逃れようとしているのだと、やっと理解した。
「すぐに裕理へ連絡しますので、少々お待ちください。彼女の乗るクルーズ船のこともお伝えしますので……」
「いや……もう少しだけ、時間を空けよう。彼女が考えを変えるかもしれない」
なぜこんなことを言ったのか、稔二は自分でもまるで解らなかった。
即座に裕理の居場所までプライベートジェットで向かい、彼女に膝をついて愛を誓い、許しを乞うべきだ。
そうすれば万事丸く収まるだけでなく、裕理がもう二度と自分を裏切ろうなんて思わなくなるかもしれない。
考えついても、実行に移せなかった。
琴浦から見ても、元気そうに仕事を続けており、稔二の元へ帰ろうとする素振りは全くないという。
一週間、二週間……裕理は帰ってこない。
流石に気になったが、警察へ届け出るのはためらわれた。文月の家の息子が妻に逃げられたなんて知られたら、会社にとって大きな損失となる。
面子を考えての行動だと分かっていたが、本当は裕理の本気度を知るのが怖かったと理解したのは、ここ一年の話だ。
なぜだ? 自分は彼女に『愛されている』と感じさせていたはずだ。
何不自由ない生活に、愛しているという言葉の嵐。
女性が一般的に望むであろう物はすべて与えたつもりだし、自分自身を夫にできて彼女も喜んでいると思っていた。
だが半年が過ぎても、裕理からは稔二に手紙も、電話も、メールも、何もない。
――彼女は俺を愛していなかったのか?
その予測にたどり着いた時、稔二の中に鮮やかによみがえったのは、裕理に初めて会った瞬間だった。
地方都市にある小さなビル。
外見は素朴だが、ある金属製品に限っては世界二位のシェアを誇る会社で、文月商事の重要な取引先の一つだ。
社長との面談のために現地へ足を運んだ稔二は、予定時間よりも少し早く現地に到着していた。地方都市のためか、どうしても交通の便に難があったのだ。
待合室に案内され、ふと窓の外へ視線をやる。コの字型に作られたビルの反対側が見えた。
二階の窓に、稔二の視線が吸い寄せられた。