「本当にごめんなさい。できるだけ裕理さんに気づいてほしくなかったのが、全て裏目に出てしまったわ」
目を伏せる彼女に私は改めて、首を横に振る。
「でも。稔二さんは本当に私を『ユウ』という別人だと思っていたようなんです。私が裕理だと分かっていたら、スタッフルームの提供も、提案したチーズバーガーの注文も、夜に手紙で気遣うことも、なかったと思うんです」
「……聞いて驚いたわ。でも今の裕理さんなら勘違いされるのも納得ね」
頷く社長に首を傾げる。ここに来る前に【アクア・プラチナム】で働き始めた時の私の写真をチェックした。
こげ茶色の目、黒いショートカット。新品の制服を着て緊張する私は、二十二歳だと周りになかなか信じてもらえなかった。最初は何度も『学生?』と聞かれたくらい。
今の私を鏡に映してみても、制服が着こなせるようになっただけで、見た目はほとんど変わっていないと思う。今だって『学生さん?』とお客様に尋ねられることが何度もある。
琴浦社長がかすかに首を傾げて微笑んだ。
「見た目の問題じゃないわ。あなたは今、あの船の清掃員としての自信に満ちている。だから雰囲気がまるで違うのよ」
「そうでしょうか? 全く自覚がなくて……」
自分の顔形をぺたぺたと触ってみる。自信に満ちているから雰囲気が変わっているなんて、考えてもみなかった。
稔二さんに私は少しでも魅力的な人間に見えていたのかしら?
考え込む私に社長が言う。
「バレなかったとはいえ、稔二さんに再会してみてどう思った?」
こちらを探るように見る彼女に、私は思わず俯いた。こんなにも、回答したくない、と思う質問を投げかけられたのは初めてのこと。
「……社長は私の事情を汲んであの船を紹介してくださったのですね?」
質問に質問を返すと、琴浦社長は私をじっと見つめたまま静かに頷いた。
「その通りよ。本当に離婚したいのであれば、気持ちを落ち着けるために逃げる時間が必要になる。あなたは一年間、あの船で働きながら身を隠すことを選んだ――でも、それはなぜだと思う?」
投げかけられた言葉に「離婚したいから」と返そうとして、胸の内側が苦しくなる。
何も返事をしないでいるのも気まずくて、言葉を探す。だけど見つからない。
船の中ではあれだけ勇ましくいられた自分が丸裸にされて、社長の言葉で『文月裕理』に引き戻されていく。
視界が涙でぼやけだした。
「わたし、は、彼と離婚、したくて……」
「なら、そろそろ、行動すべきよ」
分かっています。反射的に叫びそうになって、顔をあげる。こちらを泣きそうな顔で見つめる琴浦社長と目が合った。
「しゃ、社長?」
「……ごめんなさい。私ね、後悔するような離婚を経験しているの。だからどうしても裕理さんのことが他人事に思えない」
私は社長を呆然と見つめる。社長ほどの女性が、離婚を?
「夫と私も価値観の違いで離婚したわ。でも、離婚から何年もたってから私は、後悔したの」
「どうして、後悔したんですか?」
おそるおそる尋ねると、琴浦社長は苦笑してから言う。
「私が旦那へ本当に望んでいたのは『実家との距離感を見つめなおす時間』だったと分かったの。旦那の実家は農家で、彼は家族への協力に何の疑いも抱かない人だった。私の家とは、家風が全く違ったのよ。だから私と実家、どっちが大切なの? ってなっちゃったのね」
琴浦社長は離婚に至るまでの話を簡単に説明してくれた。
別居期間を設けても喧嘩が絶えず、夫婦で話し合って離婚したこと。
でも、しばらくして冷静になって、本当は実家に頻繁に帰省する旦那さまに不満を抱き、その不満を解消できさえすれば旦那さまを愛していたこと。
一度はよりを戻そうと相談した琴浦社長だけど、旦那さまは実家の跡取りとなることを受け入れていたこと。お互いに改めて離婚が最善策だと確かめ合うしかなかったこと。
もっと早くに自分の本心に気が付き、素直に話し合っていたら。
琴浦社長はそれを後悔しているのだと結んだ。
「たとえ夫婦になったとしても、相手の気持ちなんてまるで分からないものよ。だからこそ、裕理さんには後悔してほしくない。あなたは大きく成長したわ。いくら私の紹介であっても【アクア・プラチナム】で一年間も働いて、おまけにイレギュラーな出来事にもすぐ対応できた。自信をもって! 自分の心に素直になる自信を……」
優しく、でも、力強い声で言う琴浦社長に私は、自分の頬に涙が伝うのを感じていた。
不幸に浸っているだけじゃ、前へは進めない。
だから、逃げ続けてきた自分の気持ちに決着をつけるには、偶然が積み重なったこのタイミングしかないと覚悟したつもりだった。
だけど、会ってみて分かったのは、稔二さんが変わりつつあること。
その理由を知るのが怖い。
私がいなくなったから? それとも、私以外の誰かと出会ったから?
彼を許すべきではないと思いながらも、同時にもっと彼を知りたくなってしまった。
自分の心の弱さが情けなくて、涙が止まらない。
するときれいなハンカチが差し出された。私は迷った末に、受け取る。
柔らかいラベンダーの香りがして、胸の奥でがんじがらめになった気持ちが溢れ出し、ますます涙が込みあがった。