数分だったのか、数十秒だったのか。ほんの少しの時間のような、とても長い時間が経ったような気もする。
私の前に紙が差し出された。指でつまんで抜き取る、と頭の中で呟かないと体が動かないほどに緊張している。
改めてよく見ると、それは何の変哲もないA4のコピー用紙だと分かった。
――実は自分も寝付けないんだ。さっきまで仕事をしていた。
だからコピー用紙なのかもしれない。私は続きを書いて、また紙を差し込む。
――そうだったんですね。だとしたら、私はずいぶんうるさくしてしまったでしょう。
――いいや。君が起きていると気づいたのは、さっきの物音なんだ。
――いつもこれほど遅くまで仕事をなさっているんですか?
――仕事人間なんだ。仕事をしていた方が気が楽で。ユウというのは、どんな字を書くんだい?
――ユウ、でかまいません。文月さまが寝付けないのは、私のことが原因でしょうか?
――ではユウさんで。いいや、寝付けないのはもっと別の理由だよ。でも、ユウさんにはつらい思いをさせた。
――文月さまが気になさる必要はありません。これは、あの男性の問題でしかないと思います。
それに。稔二さんに助けられた衝撃の方が大きくて、恐怖やショックといった感情が吹き飛んでしまったのかもしれない。
書くことはできないけど、そう思いながら紙を差し込む。
――実は。彼は昔、直接教えていたことがある部下なんだ。彼があんな人間だとは、思った試しもなかった。時間の流れは人を変えてしまうんだと、改めて突き付けられた気がしたよ。
今までになく長い文章に、私は息を飲む。稔二さんがこんな風に弱みをみせるのを、初めて見たかもしれない。
しばらく考えてから、慎重に返事を書く。
――変わらない人間なんていないと、私は思います。変わるからこそ人だと思うんです。
ちょっと説教臭すぎるかな。不安になりながら待っていると、返事が来た。
――変わるからこそ、か。ユウさん、ありがとう。なんだか気持ちが落ち着いたせいか、眠くなってきたよ。今日は仕事を切り上げようと思う。おやすみ。
おやすみなさい、と返事を書こうとして、余白がないことに気づいた。
いつの間にかA4のコピー用紙は、両面が文字でいっぱいになっている。
むりやり返事を書くこともできるけど、少しだけためらわれる。
「あっ、そうだ」
ベッドサイドのテーブルに向かうと、船内で使われるレターセットの用意があった。便箋と封筒をもらって、返事を書く。
――文月さま、おやすみなさいませ。
封筒を差し込む。しばらく見守っていると、封筒がスッと消える。
それから朝になるまで、返事がくることはなかった。
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朝方に二時間ほど仮眠をとった私は、昨夜までのふわふわとした気持ちが消え去っているのを感じた。
「ユウさま。おめざめですか?」
「鈴村さん! 今行きます!」
起きているかどうかを鈴村さんに確認されたあと、私は稔二さんとは少しも会う機会がなかった。
真夜中の文通は消えていたから、少なくとも読んでもらえたことは分かっている。ゴミ箱にもそれらしい文章はなかった。
お客様に対して流石に言い過ぎたのかもしれない。そんな反省と、稔二さんが見せた弱みに向かい合いたかったという気持ちがぶつかり合う。
そして何より。
「本当にごめんなさい、裕理さん」
「琴浦さん、気にしないでください」
私の前で深々と頭を下げる琴浦社長に、私はかえって恐縮してしまう。
「私は【アクア・プラチナム】の乗組員ですから、他スタッフの安全のためにも警察へ詳しい情報を提供しなくてはならないと、十分に理解できます」
犯人が警察に引き渡された後。私は【アクア・プラチナム】から一度下船して、派遣先となっている【クリア・エッジ】の本社で琴浦社長と面談をしていた。
今日から三日間、【アクア・プラチナム】は横浜港に滞在する。
私がどういう状況で犯人に襲われてしまったのか。【クリア・エッジ】から派遣されている他の社員の安全に役立ててもらうため、私はこの一日を情報提供に当てることとなっていた。
私がその意を込めて言うと、琴浦社長が首を横に振る。
「とても嬉しいわ。でも稔二さんのことを、何も伝えられなかったわ。彼が乗船すると聞いていたのに……」
琴浦社長が悔しそうに歯噛みする。スラっと背の高い美人社長がそうやると、なんだか物凄く様になる。
聞いて驚いた。琴浦社長は事前に稔二さんが【アクア・プラチナム】へ乗船するのを、知っていたという。
「偶然、ネットの討論番組で稔二さんを見かけたの。彼はこの週末は親友の誘いでクルーズで休暇を取ると言っていたわ。それで気になって【アクア・プラチナム】の船長に裕理さんのことを踏まえて連絡をとったの。そしたら仕事のために乗船すると言われて……」
あの日。私があてがわれていた掃除エリアは、稔二さんが船内で立ち寄らない区域になっていたはずだった。
でも。犯人からの『女性に掃除してもらいたい』という注文と私が一人で先に向かうという二つの偶然が重なり、私は稔二さんがいる階へ向かってしまった。
だからこそ私は助かったともいえるし、犯人に襲われてしまったともいえる。