夕食後。私は入浴を済ませ、ベッドに横たわっていた。
(眠れない……)
今日はいろんなことが起こりすぎた。体が『敵意』や『違和感』にいち早く気づこうと、ずっと緊張しているのが分かる。
いつもより広いスタッフルームや豪華なシャワー室も、私の神経を休ませてはくれなかった。
(稔二さんは私を『ユウ』だと考えたままなのかしら……)
思い返してみても、確証はなかった。彼の笑顔や優しさを思い出すと、ひどく胸の奥が締め付けられる。嬉しさがにじんで、涙となって溢れてしまいそうだった。
慌てて別のことを考える。
船内のセキュリティ対策を担うスタッフからの連絡によると、明日は横浜港で犯人の身柄を警察に引き渡すことになるそうだ。
私が顔や名前を知られたくないことを伝えたら、下船せずに対応できる可能性が高いと教えてもらえた。
クルーズ船がラグジュアリークラスと呼ばれる高級価格帯であること。文月商事という大手商社の社員であること。
この二点から、週刊誌などにも嗅ぎつかれないよう注意しているとか。
寝苦しさが増して、私は思わずベッドから飛び起きた。
「考えてもみたら、男性に突然襲われそうになったのに、あんなふうに夕飯を食べられるなんて、どうかしていると思われたのかも……」
乾いた笑いが唇から漏れた。
私のことを稔二さんが『ユウ』だと思い込んでいるのは、結婚していた『文月裕理』にちっとも似ていないから。
だとしたら納得する。それでいい、と考えているのに、心が違和感に軋むのが分かった。
頭の中がおかしくなりそうだ。彼に「愛している」と言われていた私の姿と、今の私が違うなら、もう二度と彼の妻としてあり続けることはできないのかも。
そう考えるとさっきとは違う種類の涙がこみあげてくる。
哀しいからこぼれる涙だと理解しているせいで、指先が白くなるほど手を強く握らないと、今にも嗚咽をこぼしそうだった。
「違うでしょ。私は離婚するって決めたの。彼とは分かりあえない……」
言い聞かせるように呟く。
でも、稔二さん以上に愛せる人を、いつか見つけられるだろうか。
するとあの男に腕を掴まれた瞬間が、突然、体に蘇った。
腕が震えだす。呼吸が苦しい。
急いで枕元に向かう。船内の医師から『甘いものが苦手でなければ』と渡された、とびきり甘いチョコレートを口に含んだ。
口の中でゆっくり溶かし、ひとつ、ふたつ、と息を吸う。
「──……ユウさん?」
ドアの外からノックオンが控えめに聞こえてきた。
心臓が一気に早く高鳴り、口の中で溶かしたチョコレートを飲み込んでしまう。
鍵をかけたままのスタッフルームのドア越しに、稔二さんが話しかけてきた。
「大丈夫かい?」
優しくて温かい声が広がる。黙ったままでもいいかもしれない。けれど。
(これは落ち着くため。何もないと知らせるため……)
私は何度か深呼吸をして気持ちを落ち着かせてから、震える膝に手を当て、立ち上がった。
ドア越しに会話するにはどうしたらいいんだろう。慣れない部屋の中で、私はしばらく考え込んだ。
だって、今の服装で彼の前に出るわけにはいかない。少しでも気楽に眠れるように服をとっかえひっかえしていたから、Tシャツにノーブラ、ショートパンツというあられもない服装になっている。
それからメイク。少しでも寝たかったから、すっぴんだ。
さんざん悩んでから、私は大きな声をあげることにした。
「失礼いたしました。その……日中のことを少し思い出してしまって」
稔二さんが少し言いよどむのが分かる。
「あぁ。それは……」
彼はしばらく黙り込んでから、そっと立ち去る足音が聞こえる。ホッとしていると、ドアの下部から紙が差し込まれて、ギョッとした。
おそるおそる手に取り開くと、きれいな文字で『何か手伝えることはある?』と書いてある。
ドアの向こうから声が聞こえた。
「もし、何かあったらそこに書いてくれないか? 少し話しやすいと思って」
バターを塗ったトーストを地面に落としたような気持ちで、私は稔二さんが書いた文字を見つめていた。
彼からメッセージカードを受け取ったことは、何度もある。でもそれは花束に添えられたもので、おそらくはお店の人の手書きだった。
だからこれは、私にとって初めて受け取った稔二さんからの手紙といえた。
「しょ、少々お待ちください」
何もないです。そう答えるのは簡単だ。
(あまりにも遠ざけるのもよくないかもしれない……)
頭の中であれこれ理由を付けながら、私は急いでボールペンを探し出し、手紙に返事を書いた。
──あまり、寝付けないだけです。お心遣いありがとうございます。
紙をドアの下に差し込む。ドキドキしながら待っていると、紙が抜き取られた。
首筋に鳥肌が立つ。