鈴村さんが語る言葉に、私は耳を傾け続ける。
「わたくしはあの話を聞いて、とてもショックを受けました。奥様が聞いていないことを願いましたが、あの後……奥様が二階のお部屋から、メイクをし直して降りてこられたのを見て、もしや、と思ったのです」
以来、少しずつ心労がたまり、今のように外見にも心の変化が現れたのだと鈴村さんは語った。
「鈴村さんはどうして今も稔二さんの元に?」
「いつか奥様が戻ってこられた時、必ずや味方になろうと決心したからです」
目を潤ませて言う鈴村さんは、そっと自分のお腹を撫でた。
「わたくしは稔二さまが十歳になったころから、あの屋敷で働きつづけてまいりました。しかしある時、事故で子供を産めない体になってしまったのです」
知らなかった。私が一人勝手にショックを受けていると、鈴村さんが優しく微笑みかけてくる。
「稔二さまは、私にとっては我が子も同然に接してきたお人です。……ですから、奥様が嫁いでこられた時、まるで娘ができたように思ってしまいました。ご無礼をお許しください」
優しい声に私の中で深い感動が溢れ、波のように広がり、目元に打ち寄せる。
奥から込みあがる涙が、ぽた、ぽた、と床に落ちていった。
私は馬鹿だ。こんなに傍に大切に思ってくれている人がいたのに、自分の気持ちで精いっぱいになって、逃げだしてしまった。
「ごめんなさい、鈴村さん……」
「奥様。いえ、ユウさま。どうか嘆かないでください。わたくしは奥様が幸せになってほしいと、心から願っているのです」
優しく私の手を包み込む彼女に、深く頷き返す。
「それで。一つだけ、わたくしからのお願い事を聞いていただけませんか?」
「鈴村さんの? ええ、もちろん」
彼女はホッとした様子で目を細めて、そしてこう続けた。
「実は。稔二さまに、このままユウさまとして、少しの間だけ接していただきたいのです」
驚いて私は彼女を見つめる。すると鈴村さんは、自身の胸に手を当てた。
「わたくしは奥様に幸せになっていただきたいのです。離婚を申し出たことを後悔してほしくありません。胸のうちにわずかにでも稔二さまへの想いがあるのなら、そのすべてを清算したうえで、あらためてご自分の未来に向かい合ってほしいのです」
どうしようもない気持ちになって、私は二人を睨みつけた。
胸の内側が荒れていく。時化に襲われた船のように、左右に揺れる気持ちで苦しい。
「……船長も鈴村さんも、私にどうしても稔二さんと会ってほしいのですね?」
二人が気まずそうに顔を見合わせた。
船長と鈴村さんが言わんとしていることを、薄々、私も察し始めている。
稔二さんは、別々の環境で育った一卵性の双子のように変わってしまったのかもしれない。
顔を合わせれば、彼への恋しさで胸が熱くて切ないのに、彼が本当に稔二さんだと思いきれない気がしてならなかった。
(でも、彼が改心したからといって、私への仕打ちを許せるの……?)
ダメだ、二人に苛立ちをぶつけちゃいけない。私は大きく深呼吸をして、立ち上がった。
「分かりました。私はこのまま、稔二さんにユウとして接します」
ホッとしたように二人が顔を見合わせる。そこで即座に言葉を放った。
「でも稔二さんを信用するわけではありません。私が尊敬するお二人の想いを尊重するからこそ、彼の前に立とうと思います」
稔二さんのもとを衝動的に逃げ出してから、一年が過ぎてしまった。
たった一年? いいや、もう一年だ。
クルーズ船で働くうちに出会った大勢の人の顔が、胸の内をよぎった。
退職後、限られた時間を共に過ごす老夫婦。
旅の楽しさを伝えようと記事を書く、カッコいい女性。
妻の思い出の地に向かうために、一人きりで船に揺られる男性。
初めての経験に目を輝かせる子供たち。
私だけがいつまでも、周りから取り残された気持ちでいた。
でも、不幸に浸っているだけじゃ、前へは進めない。
逃げ続けてきた自分の気持ちに決着をつけるには、偶然が積み重なったこのタイミングしかないと、ようやく覚悟が決まった。
「裕理だとバレたときには、よろしくお願いいたします」
鈴村さんに言うと、彼女は目を細めて頷いてくれた。
船長は船の運航に戻り、私は鈴村さんとともに稔二さんのいる部屋へと戻った。
彼は奥のデスクで書類とタブレットに向かっていたが、私が数歩も歩かないうちに、ぱっ、と顔をあげた。
優しく微笑みながら話しかけてくる。
「ユウさん、鈴村さん。ダグラスとの話はついたのかい?」
反射的に恐怖と、彼に見てもらえたことへの嬉しさのような、複雑な感情が胸の内をよぎった。
でも顔に出しちゃいけない。
私はあくまでも『ユウ』。
彼に初めて会った人間として、接することが大切だ。
「お気遣いいただきありがとうございます。私は清掃が主な職務なのですが……」
「とにかく今は、休んでくれ。そうだ、食事がまだじゃないか?」
言われて私は反射的に断ろうとした。どんな提案をされても、うっかり飲み込んでしまいそうな自分がいる。
「いえ、大丈夫です。食欲があまりなくて……」
瞬間。私のお腹が、キューッ、と鳴き声をあげた。
恥ずかしさで頬が染まる。困った、と思っていると、稔二さんがそっと言った。
「無理しないでほしい。スタッフ用の食堂があるのなら、そちらまでダグラスが派遣したスタッフがついていってくれるはずだ」
強がりなのは分かっていた。でも稔二さんに隙を見せるのも怖い。
そう考えていると、私のものではないお腹の音が聞こえてきた。
私の、ほとんど目の前から。
稔二さんが苦笑しながら視線を自分のお腹に落とした。
「……すまない。実は社への対応などで、昼間から水くらいしか口にしていなくて」
「なんで最初におっしゃらないんですか!?」
思わず叫んでしまい、私は慌てて口に手を当てる。
稔二さんが驚いた様子でこちらを見てくるので、大急ぎで笑顔を浮かべてごまかした。
「それならルームサービスを取りませんか? この部屋のランクでしたら、なんでも食べたいものを用意してくださるはずです。鈴村さんも一緒に食べましょう」
彼女を巻き込むのは申し訳ないと思いつつも、振り返ってそう尋ねる。