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08


 仕事をしていた時は日中だったのに。きらきらと水面を輝かせる夕暮れの空は、とても美しかった。


 窓の外に広がる光景に思わず見入りそうになるのは、プラチナスイートのスタッフルームだからかもしれない。


 室内は驚くほど清潔感とラグジュアリーな雰囲気に満ちていて、私と同じランクの清掃員では立ち入れないことを肌で感じてしまう。


 きっと国際的にも通用するような資格や経験を積んだスタッフだけが、本来は立ち入れるはず。


(っと、こうしちゃいられないわ……)


 私は室内でしっかりと休む用意を整えつつ、心を落ち着けるように深呼吸をする。


 あの後、私は少しだけアーノルド船長と二人きりで話をした。


『部屋そのもののセキュリティランクが高められる……それはありがたかったのですが、どうして私と稔二さんが二人きりになるかもしれない提案をなさったのですか?』


 少しだけ裏切られたような気持ちになって、私は思わず強い口調で尋ねていた。


 船長は真剣なまなざしでこちらを見つめてくる。


『すまない。先に伝えておくべきだった。この船の中でなら、ボクは船長として君を守れるが、被害届を出すつもりがあるのなら横浜港で下船が必要になる可能性があるんだ』


 私は凍り付いた。そうか、そうだった。


 この船は人間でいう住民票がイギリスにある。そのため「船内の法的秩序を維持する権限」をもつ船長は、最初はイギリスの法律に基づいて対応する。


 でも、私に迫ったあの男は日本国籍。


 私自身も日本国籍だから、横浜港で事件が報告された場合、日本の警察および法執行機関が事件を調査する権限を持つだろう。


 私が本当は文月裕理だったって、稔二さんにバレてしまうかもしれない。


『被害者の意思に反して警察が捜査を開始することは一般的にありえない。でも、横浜で下船した時に、万が一だが、文月裕理だと知る人に会ったら? そうなると『ユウ』だと偽り続けるのには、限界がくる』


 頭の中が怒りでどうにかなりそうだった。


 あの眼鏡の男。彼はどういうつもりだったのだろう。彼のことがなければ、たとえ稔二さんと同じクルーズ船にいたとしても、バレずに過ぎたはずだった。


 一方で怒りが原動力となり、私の中で考え事をまとめる力が湧いてくる。船長が言わんとしていることを、少しずつ分かり始めていた。


『稔二さんに自分が『ユウ』ではないと打ちあけてしまった方が、今後もスムーズに船に乗り続けられるかもしれない。そのチャンスがこの夜、ということですね』


『そういうことだ。君が一年間逃げ続けたことで、稔二もそうとう参っているらしい。偽名をつかうほど君が離婚を望んでいると知ったら、対応してくれるだろう』


 なるほど。私はため息をついた。


『それに心強い味方もいる』


 味方? 疑問符を頭に浮かべた時、松恵さんが部屋に入ってきた。


「えっ!」


 思わず立ち上がりそうになると、彼女が目に涙を浮かべて深々と頭を下げてきた。


。お久しゅうございます」


 呼ばれた名前は私の本当の名前だった。



 松恵という名前に心当たりがないつもりでいた。でも……この声だけで考えれば、私には心当たりがある。


「ひょっとして、いつも家にお手伝いに来てくださっていた……ハウスキーパーの、鈴村さん?」


「はい、そうです」


 驚きのあまり私は立ち上がる。私の記憶の中にある鈴村さんと、あまりにも外見が違っていたからだ。


 稔二さんと私が暮らす家へ来ていた時の彼女はとてもはつらつとした女性で、深紅の眼鏡に詰めた黒髪が鮮やかだった。


 その手際の良さやはっきりとした物言いに、何度刺激を受けただろう。


 私にとって「あんなふうにテキパキ何でもできるようになりたい!」と思わせる人だった。


 目に涙をためた松恵さん……いいえ、鈴村さんが、静かに言う。


「奥様。わたくしが松恵と咄嗟に名乗ったのは、お辛い目にあわれた奥様にわたくしであると気づかせないためだったのです。大変無作法なことをいたしました」


 声を聞けば聞くほど、鈴村さんだ。しかし。


 今の彼女は髪は茶色に染められており、眼鏡は黒ぶち。


 おまけに顔立ちもすっかり変わってしまったいて、どう見てもあの頃の鈴村さんと同一人物とは信じがたかった。


「奥様。奥様が家を出てから、多くが変わってしまったのです」


 さみしそうに鈴村さんが言う。


「……だからこそ、わたくしは船長にお話をいただいた時、心に誓いました。わたくしは奥様の味方をしよう、と」


「どうして?」


「奥様。奥様が気落ちをなさり、離婚を決意なさったのは、利治としはるさまに稔二さまが話している内容を耳にしてしまったからではありませんか?」


 あまりのことに私は口元に手を当て、今度は崩れ落ちるように椅子に座り込んでしまった。


 私しか稔二さんの本心を聞いていないと、どうして思い込んでいたんだろう。


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