私が尊敬の念を込めて彼を見つめると、船長は『やめてくれ』と手を横に振る。
『君については、琴浦さんから話があったんだ。文月裕理……彼女は夫から逃げようとしているのかもしれない、相手が相手だからできるだけ便宜を図ってやれないか、ってね』
『どうして本名がバレなかったのか、不思議でたまらなかったんです。もしかしてユウという名前で押し通してくださったんですか?』
船長は大げさに肩をすくめながら頷くと、おどけるように笑った。
『稔二は確かに文月家の御曹司だ。正直、ウチの会社も太刀打ちできないような大手の会社の経営層だよ。だが、だからといって、よその会社の規則や船内に適用される国のルールを、ほんの数時間で変えるような権限まで持つと思うかい? そもそも、君はこの船の乗組員なんだ。船員を守るのは、ボクの義務だよ』
言われてみると、当たり前のように思えた。
でも、どこか信じきれない気持ちがある。稔二さんならやり遂げてしまうだろう……という疑念がぬぐえない。
顔を俯かせている私をみてか、アーノルド船長が続ける。
『それに……彼が妻から逃げられたという話は、半年ほど前から噂になっていたんだ』
ぎょっとして、私は彼の顔を見上げる。エメラルドグリーンの瞳は真剣そのものだった。
『ボクは稔二と大学が同じでね。稔二、ダグラスとファーストネームで呼び合うようになった。とてつもなく優秀な男で、家柄もいい、もちろん顔もね。間違いなくいい奴ではあるよ』
だから稔二さんは船長を『ダグラス』と呼んだのね。
納得しながら話の続きを聞いていると、船長は言った。
『でも、稔二はどんなに情熱的な恋愛をしても、最後には性格を原因に破局するばかりだった。彼は愛について、何か誤解しているんだ。だから……もし仮に彼が妻を迎えたとしても、いつか悲劇的な結末を迎えるんじゃないかと予感していた』
『思った通りになった、というわけですね』
乾いた声が私の口から飛び出す。
名前で呼び合うような友人に、そんな風に思われていた男性だったなんて。
私は本当に、稔二さんについて、何も見えていなかったんだ。
『気を落とさずに。とにかく、この船にいて、ボクの目が届く限り、君は『ユウ』だ。文月裕理じゃない』
『……ありがとうございます』
『それで、稔二が君に謝罪の意思を示したいというんだ。同席するから、一緒に話を聞いても?』
願ってもない。私は即座に頷くのだった。
稔二さんと松恵さんが室内に戻ってくる。
「ダグラスにも話したんだが……ユウさん。本当に申し訳ないことをした」
深く頭を下げる稔二さんに、私は返事をする。
「文月さまが謝罪なさる必要は、ないように思えます。しでかしたのは、その、部下の方でしょう?」
なんだか釈然としない思いに駆られて、つい口調が激しくなった。
「俺自身の謝罪もあるが、文月商事全体からの謝罪でもある。もちろん襲った彼には、次の就航地である横浜港で即座に退船してもらい、警察に出頭させる。防犯カメラにも映像が残っていたからね」
まったくもって同意だった。
ぜひそうしていただきたいし、しないのなら私が警察へ電話をしようと思っていた。
私個人の問題ではなく、船全体の問題としても気になる。
もしもこれが、他の乗客を巻き込むような事件に発展したら、どうなるだろう?
「それで……謝罪として、君には横浜港で犯人の引き渡しが終わるまで、さっき休んでもらっていたゲストルームを使ってもらえないかと思うんだ。船内では警備員もいるが、警察はいない。次の就航地まで、一番安全なのは、この部屋だ」
スイートルームとして、この部屋には多くのセキュリティ設備がある。
ゲストルームも確か三部屋はあったから、そのうちの一部屋を私にあてがうことだってできるだろう。
だが。同時に私の中に、一つの疑念が込みあがっていく。
(私に贅沢な想いをさせて、もし裁判とかになったとき、有利な発言をさせるつもりなのかも……)
疑いの目を向けそうになった時だった。
「もちろん、君がスタッフ用の部屋で過ごしたいのなら、それは止めないよ」
稔二さんはそう言うと、私の様子をうかがうように首を傾げた。
えっ、と唇から驚きが漏れそうになる。
彼のことだから自分の意見が正しいと信じ、押し通そうとするだろうと考えていたから。
するとアーノルド船長が言う。
『ユウさんの意見をボクは尊重するよ。幸い、あの男性はすでに警備員が取り押さえているし、数時間後には日本の横浜港だ。ただ……』
彼は私の方を気づかわしそうに見た。
『彼は取り押さえられただけでなく、勤め先のトップである稔二に自分のことを知られているんだ。自棄を起こして、君が一人でいるところを探しあて、襲撃するかもと、ふと思ってね……もちろん警備が逃すとは思わないんだが……』
私の背に寒気が走った。スタッフルームは船内でも限られたスペースで、お客様の目につかないようになっている。
数時間後。自分は警察に突き出されるばかりか、しかも職まで失うことが確定していると知ったとき。人はどんな行動に出るだろう。
緊張していた分だけ恐怖が増す。でも。
「……謝罪は受け取ります。ただ、特別扱いを受けたいとは思いません」
真っすぐに稔二さんの目を見つめて言うと、彼は小さく息を飲んだ。
するとアーノルド船長が言う。
『ユウさん、この部屋に近いスタッフルームでの休憩は難しいだろうか? 24時間専属バトラーサービスのために、スタッフルームが設けられている。部屋そのもののセキュリティランクが高められるだろう』
船長は私のことを心配している。彼の気持ちを裏切ることはできない。
それに。スタッフルーム越しに、稔二さんが『出ていった妻の裕理』に対し、どのように考えているのか探るチャンスになるはずだ。
「……分かりました。私としても、最上級のキャビンで過ごせるのは今後の大きな糧となります。スタッフルームにて、今日は休ませてください」
ホッとした様子で稔二さんが頷く。私はそんな彼の様子に、不思議な感情を抱いていた。
「よかった。ユウさん、不安なことがあれば何でも言ってくれ」
自分が知っている稔二さんとは別人のような気がしてならない。
私のことを『何も問題を起こさず、俺に愛されていると勘違いしてくれる』と言い放ったときと同じ声のはずなのに、今は優しさをもって静かに話しかけてくる。
さらによく見れば、緩く波打つ黒髪はどこか色彩を欠いてパサついていた。顔立ちには影が落ちて、なんだか寂し気だ。
スラっとした長身に見合う整ったボディラインだったはずなのに、今はどこかやつれているみたい。
やつれて、寂し気? あの稔二さんには似合わない言葉だ。
彼はいつも完璧で、私の前ではいわゆる『スパダリ』そのもの。でも、そのすべてが、都合の良い妻を手に入れるための嘘だっただけ。
(あと数時間……そう、犯人がいなくなりさえすれば……)
稔二さんの前から再び逃げ出し、私はこの船で働き続けよう。
そう心に決めていた。