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06


 温かいベッドの中にいると気づいて、目を開けると、優しそうな女性の顔が視界に入った。


 眼鏡をかけていて、茶髪を柔らかい素材のシュシュでまとめている。


 抱擁感のある雰囲気、四十歳くらいだろうか。


 亡くなったお母さんと年齢が近いように思えて、私は無性に安心した。


「よかった。驚きましたよ、稔二さまが連れてこられた時には、どうなさったのかと」


 微笑みながら彼女が言った。


 どきっ、とする。


 彼は私をどこへ連れ込んだのだろう。


「……ここ、は」


「稔二さまのお部屋です。気を失われた後、一度は救護室へ運ぶことも提案されたのですが、万が一を考えてよりセキュリティの高いエリアに連れて行った方がよいと」


 私は驚きのあまり飛び起きようとして、押しとどめられた。


「腕に捻挫もあります。どうか、今はまだ横になっていてください」


「あなたは? それにこの部屋って!」


 失礼にも矢継ぎ早に質問した私に、彼女は優しく微笑んだ。


「まあ。申し訳ございません。わたくし、松恵と申します。ユウさまはこちらの乗組員ですから、きっとわたくしより内部のことは詳しいでしょうから、驚かれるのも無理はありません」


 私は思わず身を乗り出して、何度も頷く。


「この部屋。【アクア・プラチナム】の中にたった一部屋しかない、プラチナスイートのお部屋……私も清掃に入ったことは一度もありません。ベテランの清掃員しか入れない、特別なお部屋です!」


 室内は甘く上品な香りで満たされている。船内とは思えないほど背の高い窓に、壁を彩るいくつもの芸術作品。天井からは銀に煌めくシャンデリア。


 室内には六人掛けの巨大な黒いテーブルが置かれ、革張りの上質な椅子が並んでいた。

 執務用の部屋と思われるエリアだけでなく、小さなベッド付きの他の部屋が向こう側に見えた。


 でも、考えたら私が寝ているのはベッドだし、もしかしてこの広さで寝室かもしれない。

 あまりにも豪華すぎる部屋は、私に結婚生活を思い起こさせた。


 松恵さんは表情を暗くした私を気遣ってか、優しく声をかけてくる。


「大丈夫ですよ。稔二さまに、がお目覚めになったと伝えてまいりますから、こちらでお待ちください」


 今すぐ逃げたい。できれば可能な限り早く、遠くへ。


 でも、すぐに、変だと思った。


(彼女も私を『裕理』ではなく『ユウ』だと思っているの……?)


 おかしい。私は乗組員なのだから、本名もすぐに分かるはず。

 疑問ばっかり、頭の中に膨らんでいく。


(離婚を目指すなら、いつかは稔二さんと向き合わなくちゃいけないのは分かっていた……いい機会だと思うべきかもしれない。でも、あまりにも急すぎる!)


 どのみち、クルーズ船は今、海の上。逃げる手段は私にはない。


 そう考えていると、部屋のドアが開く。


 稔二さんが目を見開いていた。彼はひどく心配そうな様子で、私のそばにやってくる。


「ユウさん。目が覚めたのか?」


 優し気な彼の声と目つき。それは結婚前、恋をしていたころの私が見た稔二さんの姿、そのものだった。


 手が触れそうになり、体の奥で心臓がバクバクと音を立てる。


 悲しいほどに彼に恋焦がれている。なのに、私の心そのものは、彼のことを疑ってたまらなかった。


 今の優しい言葉だって、何か裏にあるはずだ。

 違う。彼は本心から心配している。


 二つの感情が胸のうちでぶつかった。


 その時。清掃員として与えられている制服が視界に入った。


 口元が自然と笑みを浮かべる。


「お手数をお掛けいたしました。文月さま。【アクア・プラチナム】において、お客様を第一にサポートすべき乗組員であるにもかかわらず、このようにお気遣いいただいて……」


 すぐにベッドから出ようとすると、稔二さんが首を横に振る。


「いや。謝るべきはこちらだ。なぜなら……君を襲った男、アイツはであり、俺からすれば部下にあたるからだ」


 思いがけない言葉に、私は唖然とする。


「ふ、文月商事の、社員様!?」


「本当に申し訳ない」


 深く頭を下げる稔二さんに、私は何も言えずにいた。


 美しい部屋に流れるクラシック音楽が、今だけは耳障りに思える。


 まさか私を襲った男が文月商事の社員だなんて。


 予想もしなかった言葉に、私はただ彼を見上げていた。


「君はもう勘づいているようだが、俺は文月商事の関係者だ。そんな人間から詳細を聞いても混乱するだけだろう。ダグラス……アーノルド船長が来ているから、彼から詳しい話を聞いてくれ」


 稔二さんがそう言うと、松恵さんを伴って部屋を出ていく。鍵が閉まる音が一度響いた後、入れ替わるように男性が入ってきた。


 金髪をざっくりとカットした背の高い中年の男性。アーノルド船長は、私に気づかわし気に声をかけてた。


『大変だったね、裕理さん』


『船長。お騒がせをいたしました』


 深々と私が頭を下げると、彼は首を横に振った。


『いや。ボクたちのミスでもある。ほかのスタッフからも、ナンパのような行動をとっている日本人男性がいるとは情報が共有されていたんだ。まさかあんなふうに手を出す人間だとまでは見抜けず、君に恐ろしい思いをさせてしまった。それに……』


 船長はそーっと席を離れると、部屋の中を確認する。そしてドアにしっかりと鍵がかかっていることを確かめてから、私の前に戻ってきた。


なんて、驚いただろう』


 私はポカンとしてアーノルド船長の顔を見つめてしまった。


 いったいいつ、彼に、稔二さんとのことを話したんだろう。


 そう思っていると、船長は苦笑しながら胸ポケットから手帳を取り出した。


 彼が見せてくれたページには、何人もの男女の名前とともに、小さな記号が羅列されている。


 記号には規則性があり、私の名前の横についてるものと同じ記号が名前に添えられた人も何人かいた。


『実は、以前からこの船では、事情があって『離婚したいけどできない』という男女を雇ってきたんだ』


 驚きのあまり、私は口を開けて彼を見上げてしまう。


『このクルーズを所有する社長の意向でね。なんでも、自分自身も船に乗ることで、離婚を成功させた経験があるらしい。以来、さまざまな事情を抱えた人間を乗せてきた』


 この船にそんな事情があったなんて、思いもよらなかった。


 でも同時に、素晴らしいことだとも感じる。逃げる場もなく、お金を稼ぐこともできず、ただ耐え続けるだけの日々から逃げ出すチャンスを提供しているのだから。


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