私は彼に愛されていない。私は、彼にとって、便利な道具の一つに過ぎない。
初恋の人で、最愛の人。愛した分だけ、愛されていると思い込んでいたバカな私。
最初は信じられなかった。ううん、信じないようにしていた。
利治さんがその後、どんな話をしたのかは覚えていない。私はただひたすら部屋にいて、夕食の時間になってようやく、フラフラと立ち上がった。
話を聞いてしまったのがバレるわけにはいかない。バレたら、どんなことを稔二さんに言われるか分からない。
壊れそうな心を守るには、他にいい方法を思いつかなかった。
夕食の席に現れた稔二さんは、私の顔を見てハッとした様子で近づいてきた。
「どうした、裕理? お母さんのこと、思い出しちゃった?」
そう囁いて抱きしめてくれる、優しい稔二さんが、悪魔のような考えで私を妻に迎えたなんて信じたくなかった。
彼が私のためにしてくれたすべてが、自分の生活のため、ただそれだけだったなんて思いたくなかった。
でも不安になればなるほど、気持ちの中が重く、苦しくなっていく。
「大丈夫だよ、裕理……」
稔二さんの唇が、私の唇に触れる。そのまま息を飲むと、舌先がぬるりと入り込んできて、上唇から歯列をなぞり、優しく私の吐息を吸った。
「可愛い裕理。大丈夫……」
私はその夜、彼にそのまま抱かれてしまった。
心の中では悲鳴を上げていたのに、彼のことを体は受け入れ、悦んでしまった。
(私も、母のことさえ利用する、悪魔の様な人間の妻に成ってしまったんだわ……)
その日の夜は涙が止まらず、私は一睡もできずに、稔二さんの隣で夜を明かした。
どうすればいいのか、最初の一週間は何も分からなかった。でも次第に、心の中で私自身がしたいことが見えてくる。
決してこのままじゃダメだって。
すべてを飲み込んで稔二さんの隣で暮らす日々の方が、きっと安定して、経済的にも豊かな生活が送れるだろう。
でも、いつか私は、稔二さんへの不信感と恐怖でおかしくなってしまう。
なにより、私は彼を許せない。
偶然だったかもしれないけど、母の死を利用してまで、自分に都合のいい女を手に入れようとした彼を、許せそうにない。
だけど、離婚なんて切り出したら、稔二さんは私をどうするか分からない。
逃げるにしたって、日本国内では、すぐに見つかってしまう。
そこで思いついたのが、船での逃避行だった。
手紙を置いて家を出ようと決めたその日。
私は、高校を卒業してすぐに勤めだした清掃会社【クリアエッジ】の社長である琴浦さんの元を訪れていた。
母は親戚付き合いも薄かった。私自身、結婚の相談ができるような友人もいない。
何時でも仕事に戻っておいで、という言葉が社交辞令だとしても、とにかく今は彼女が頼みの綱だ。
素直に「夫と離婚することになったので、長期間の仕事が欲しい。できたら海外にも行けるような」と相談すると打ち明けると、琴浦さんはあっさりと納得してくれた。
「いつかこうなるかもって思っていたのよ。私、人を見る目はあるから」
そんな風に優しく言いながら、琴浦さんは親身に寄り添ってくれた。家から逃げ出すための手筈も、一緒に考えてくれた。
稔二さんと二人で暮らしていた家から、私が持ち込んだ荷物以外、一切持ちださないようにという忠告もくれる。
マロノ・ブラニクの靴、ファビアナのドレス、ボッテガの財布……。
すべて稔二さんが買ってくれたものであって、私では到底手に入らないものだから、置いてきてよかったんだと思う。
そして琴浦さんが紹介してくれたのは、海外と日本を行き来するクルーズ船の清掃員。
幸いにも文月家で鍛えられたおかげか、英語力が十分だと認められ、日本国内外を行き来するクルーズ船『アクア・プラチナム』の清掃員になれた。
琴浦さんが紹介してくれなかったら、この仕事は見つからなかっただろう。
(これだけは稔二さんに感謝できる。彼が英語や作法を私に叩き込まなかったら、得られない選択肢だったもの)
胸の中が熱くなる。稔二さんのことを少し思い出すだけで、幸せなような、不幸せのような、どうしようもない衝動が身を包んだ。
どうして? だって、彼を愛している。まだ、愛しているから。
でも彼と結婚生活をこれ以上続けることは、できそうになかった。
無事に仕事ができると決まり、荷物もまとめ終えた金曜日の夜更け。
「稔二さん。今夜も私を……可愛がってくださいますか?」
ベッドの上で、下着をちらつかせて囁いた私に、稔二さんは驚いたような表情を見せた。
「どうしたんだ、裕理。急にそんな小悪魔のような」
「っ、よ、読んだ恋愛漫画に描いてあって。どんなふうにおもうのかなっ、て」
適当なでっち上げだった。恋愛漫画なんて、今の私には夢物語すぎて、辛くなってしまう。
稔二さんは私の体を強く引き寄せる。乳房がパジャマ越しに強く揉みしだかれて、思わず声が上がった。
「かわいいよ、とてつもなく」
鮮やかな吐息が耳に吹き込まれる。稔二さんの指先がシャツをめくりあげ、私の体を這いまわる。
愛してくれているの?
愛そうと、してくれているの?
そう思って過ごした夜は、おそろしく甘美で、私にとって忘れられない夜になった。
稔二さんには、どんな夜だったんだろう。
翌朝。私は稔二さんがゴルフにいったのを確かめて、すぐさま家を出た。
あれから一年……私はなんとか、海の上で、逃げ続けてきたのに。