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04

 稔二さんと結婚してからの日々は、充実していたのだと思う。


 文月家は元をたどると華族であり、稔二さんの父も、その祖父も、弁護士として活躍していた。さらに母方の祖父はイギリスの貴族の家柄で、稔二さんはその血を引き継いでいるのだという。


 私は何もかもが違う文月家に馴染むために、必死になって勉強した。


 稔二さんはそんなに焦らなくていいと優しく言ってくれて、いつも私の味方だった。


 優しい稔二さんに報いたい。

文月家の立派な嫁になって、愛する稔二さんと一緒に暮らしていきたい。


そんな矢先。母がついに、亡くなった。


骨壺の中に納まった母は、私が持ちあげられるくらいに小さくなっていた。


「お母さん……おかあさん……」


 稔二さんに会った私を見て、母は『あなたが信じられる人なら』と私の髪をなでて笑った。


その当時、私にとって稔二さんはこの世で母の次に信じられる人だったから、私は迷いなく頷いた。


「裕理。笑顔でお母さんを見送るんだろう?」


 優しく肩を抱いてくれる稔二さん。その胸に飛び込んで、私は強く安心したのを覚えている。


 母が亡くなり、二か月は落ち込んでいただろうか。その間も、文月家の皆様は私に親身にしてくれるし、稔二さんと一緒に暮らしていられた。


だから大丈夫だって、自分に言い聞かせて……。


ふと、違和感に気づいた。


 私が母の死から少しだけ立ち直った直後。稔二さんは明らかに、仕事の量を増やし始めていた。私は休日でなければ彼と会えなくなったし、会う時も仕事のことがあればすぐに稔二さんは席を外した。


 そして私が少しでも不安を口にすると、即座に帰ってきて私を抱きしめ、愛してくれる。濃密なセックスを何時間も重ねて、私から不安を追い出すように愛を囁いた。


 でも。何かが、何か決定的な何かが足りないと、私の体と心が感じ始めていた。


 今思い返してみると、稔二さんのためならば、と愛だけを私が支えに生きてきたからだと分かる。なのに彼がくれるのは、あくまで物とセックスと、空虚な言葉だけ。


 私が母子家庭であり、母とどんなふうに暮らしてきたのかを語っても、稔二さんはただ頷いて同意してくれるばかり。


私は稔二さんがご家族とどんなふうに暮らして、何が大切で、どうやって生きてきたのか、何一つとして教えてもらえなかった。


 どれほど待っても、稔二さんは、何も教えてくれなかった。仕事のことを私が勉強して話しかけても「裕理は知らなくていいんだよ」と笑顔を向けるだけ。


 私は文月家の嫁として、稔二さんにとって恥ずかしくない存在になりたい。妻として彼を支えたい、そう思っていた。


 でも稔二さんは、たぶん、違うのだろう。


 私の胸の中で不安と不満が大きくなっていく。

 考えてもみれば、不思議なことばかりだった。


 文月家は資産家で、さらに稔二さんはとんでもないハイスペックなイケメン。引く手あまたの彼が、いくら愛してしまったからって、どうして何もない私を妻に迎えたんだろう?


 そんな不安が胸のうちでいっぱいになった、とある日の午後。


 家の中のことは、家政婦に任せればいい。そう言われてもやることがなくて、私は窓掃除をしようと思いついた。


 廊下だと稔二さんにバレてしまうだろうから、まずは自分の部屋だけ。


 窓を拭くと、心の中のもやもやも晴れていく。たとえこの数時間後に雨が降ったとしても、今一瞬、きれいになっている事実は変わらない。


 すると、裏庭に稔二さんが友人の利治としはるさんと一緒に入ってくるのが見えた。私は思わず身をひそめる。決して悪いことをしているわけでもないのに、窓掃除をしているとバレるのが嫌だった。


 でも、思い返すと、本当に悪いことだったのかもしれない。


 だって、私は、稔二さんの本心を知ってしまったのだから。


「俺は別に彼女を愛しているわけじゃない。裕理は、俺に頼るしかない都合のいい嫁になってくれると確信したから、俺は結婚したんだ。その点、考えてみろ、利治。君は恋愛にも、結婚にも夢を見すぎだよ。裁判と同じだ。決断を下すならば、証拠を揃えてからすべきだ」


 風に乗って響く言葉に、私はその場で動けなくなった。


「彼女は近年稀な、とても都合が良い子なんだ。俺と出会った時には母子家庭、おまけに卒後すぐに社会に出て働いているというのに、擦れたところがちっとも見られなかった。話せばすぐにわかったよ、田舎の生まれで恋愛の一つもしていなかったのさ。彼女は自身の仕事として成すべき範囲がきちんと分かっているが、失礼にも突然口説きだした俺の話を穏やかに聞くだけの度量もあったんだ」


 まるで仕事の成果を語るように満足そうな稔二さんの言葉に、私は何もかもが信じられなくて、ただそこに座っていた。


 でも、開いたままの窓を背にしているから、嫌でも声が聞こえてしまう。


「だけど、稔二。お前、よく『愛している』とか言うだろう?」


 不思議そうに利治さんが尋ねる声が聞こえる。私の内心の疑問を代弁するかのように。


「利治、依頼人を安心させるのも俺たちの仕事だろう。たとえ嘘でも『愛している』と言葉にして伝えると、相手は安心するんだよ。裕理は仕事や役目がないと不安になるタイプだから、妻としての勉強だと言って英会話や手習いもさせている。だが、決して俺の領分には踏み入らせないようにしている。こうすれば俺の考えに気づくこともないだろう」


「いや、でも、結婚したんだろう? それって彼女を少なからずほかの女より信頼していたからじゃないのか」


 私もそう思った。


百歩、ううん、一万歩譲って、稔二さんが私と目的のために『愛していないけど結婚した』とする。


でも結婚したのなら、私への信頼はあったはずじゃないの?


「信頼? まあ、そうだな。状況的に俺のことを絶対に困らせないし、何を言っても俺のためだと健気に努力するだろう、という信頼はあった」


 ガラガラと、心の中で何かが崩れていく。


 稔二さんの言葉全てが、私の心臓を貫いていく。


「最初から文月家の家格に申し分ない女を迎えたら、ゆくゆくは不倫もするし、仕事にまで口を出してくるだろう。その点、裕理にはそんな心配がない。何も問題を起こさず、俺に愛されていると勘違いしてくれるさ」


 軽い笑い声が響く。


 私の中にあった不安や不満、そして疑問が一つの線としてつながった瞬間だった。


文月家は資産家。さらに稔二さんはとんでもないハイスペックなイケメン。引く手あまたの彼にとって、私は都合がいい女で、手駒になるから、結婚を申し込まれたんだ。



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