人口二千人がやっとの、群馬県の小さな町。そこで生まれた私は、十歳のときに父親を事故で亡くした。
それから母親と二人で何とか食べてきたけれど、中学生の時も、高校生の時も、決して胸がときめくような経験はしてこなかった。
おしゃれって、意外とお金がかかる。清潔にしようとは気にかけていたけど、清潔で可愛い女の子たちに比べたら、私はきっと地味な方だ。
高校卒業後は、迷うことなく働きにでようと決めた。母が心配だったから町で仕事を探してみると、東京に本社のある清掃会社【クリアエッジ】が見つかった。
初任給も決して悪くないし、研修も豊富で社員の成長を重視している。高卒の社員も大勢いて、私は安心して就活ができた。
無事に採用してもらい、勤めてから半年。私はとあるビルへ定期的に清掃に伺うようになる。
このビルが、私の運命を変える場所とも知らず。
窓掃除をしていた、ある日のことだった。
「すまない、ちょっといいかな」
急に声をかけられて、私はびっくりしながら振り返る。視界に入ったのは、鼈甲を使ったネクタイピン。
ネクタイに沿って見上げると、驚くほどきれいな瞳が私を見つめている。端正で、だけどどこか華やかな甘さのある顔立ち、すらっとした長身を彩るキャラメル色のスーツ。
喉の奥を視えない手にギュッと握られたような衝撃に続いて、私は顔中が熱くなるのを感じられた。彼は私の顔をじっと見つめている。窓掃除の手をとめ、慌てて私は彼の方を向いた。
「あの……」
彼は、私がちゃんと顔を見たのをきっかけに、にっこりと笑顔を浮かべてくる。
「道を聞きたいんだ。ここの社長室への」
真正面から聞く声は、私の胸を熱くさせた。心の中が酷く焦っている。彼が私自身に興味を抱いたのだと、一瞬でも勘違いしたのが、とんでもなく恥ずかしかった。
「あ、あの、私はここの従業員ではなくて、出入りの清掃員なんです」
「そうなのかい?」
「ひ、必要でしたら、ええと、社員さんにお声がけしましょうか?」
「君がそうしても仕事に影響がないなら、ぜひお願いしたいな」
優しく微笑む稔二に、私は胸が高鳴るのを感じながら、大きく頷く。
こんなにドキドキしたことなんて、人生の中でも初めてだった。
顔なじみの社員さんを探す間でも、私の胸の中はざわついて仕方がない。
それから数十分後。別のフロアで仕事をしていた私の元に、稔二さんは再び現れた。
「ああ、ここにいた」
「えっ? あ、あの。何か、間違いがありましたでしょうか?」
「いや、違うんだ」
じゃあ何があったのだろう。不安を抱えながら、私は稔二さんの表情をうかがう。この時まで、彼の名前さえも知らないのに。
「シンデレラでは、王子様が花嫁を待ち受けるだろう? でも、本当なら王子様は待っているんじゃなくて、探しに町へ出かけるべきだったんだ。魔法なんていう、不確かなものに頼らずにね」
彼は私をじっと見つめて、そういった。耳を疑うような恐ろしく気取ったセリフなのに、彼の声のせいなのか、とてつもなく美しい言葉に聞こえる。
そして私の前に手を差し出した。
「私は文月稔二。稔二と呼んでほしい」
「えっ? あの、その」
「君の名前が知りたい。もちろん、その名札を読むなんていう無粋なことはせずに」
仕事中です。そう断ればよかったのに、バカな私。
「あの、薫崎裕理といいます……」
「裕理? きれいな響きの名前だね。文月裕理になっても、うん、きれいな名前だよ」
びっくりするような言葉に、私は急に我に返った。
「すみません、仕事中なので。失礼いたします」
「おっと。そうだね、そうしよう」
にこやかに言った稔二さんと再会したのは、その日の仕事終わり、私が駅から出てすぐのことだった。コンビニから買い物袋を持って出てきた彼と、ばったり鉢合わせたのだ。
「今は仕事中じゃない、そうだろう?」
私はこの時点で、すっかり、稔二さんからの求愛に飲み込まれていた。
周りが見ても恥ずかしくなるような告白や、デートのお誘いが続く。
何十本もの赤いバラ。素敵なレストランでの食事。母を気遣ってくれる稔二さんのやさしさも、結婚式の後にこそ私の初夜が欲しいと望む彼の言葉も、全てが物語の王子様のようで……。
初めての出会いからたったの半年で、私は稔二さんと結婚した。母の病気が分かり、時間がないと理解したのも大きかったと思う。
── 少しでもはやくお母さまを安心させてやりたい。
そんな稔二さんの言葉に、私は思わず頷いてしまった。おまけに、結婚したら家に入ってほしいと言われ、私は何の文句も言わずに仕事を辞めてしまったのだ。
稔二さんの言うことなら絶対に正しい。
彼のためなら、なんだって頑張れる。
私はすべてを彼に捧げる覚悟だった。
そしてハワイで夢の様な素晴らしい結婚式を終えた夜……。
「ありがとう、裕理。必ず幸せにするよ、愛している」
優しく言った稔二さんは、私にそうして、初めてのキスをくれた。彼のものが私の中に入ってきて、熱く、甘く、全身を愛してくれる。濃密で濃厚な夜。
忘れられない夜になったのは、事実だ。
でも、周りから見たら私はきっと、彼にいいように踊らされているお人形だったに違いない。