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02

 チェックリストに記載された清掃箇所を改めて確認してから、私は自分が磨き上げた窓ガラスの外に広がる大海原を眺めた。

 この船に乗るようになって一年ほど経つが、本当に何度見ても見飽きることはない。


(別居状態で離婚が成立するには、数年はほしいんだっけ……まだたったの一年? それとも、一年も?)


 考えながら私はカートへ掃除道具をしまう。


 三年前。私は薫崎かおるざき裕理から、文月裕理になった。

 文月家の御曹司、稔二さんと結婚したから。


 でも、ある事情で離婚を願い、こうして今はクルーズ船の乗組員として働いている。


 廊下に出ると、反対側の部屋を掃除していた同僚のシャーリーさんが、パッと笑顔を見せた。


『おつかれさまです、シャーリーさん。作業完了しました』


『ありがと、ユウ! 次の仕事なんだけど、十階のロイヤルスイート、〇一四号室って分かる?』


 ユウは、裕理ゆうりを呼びやすくした、スタッフ間での名前のようなもの。


 クルーズ船【アクア・プラチナム】は、イギリスの運行会社が手掛ける格式あるクルーズ船だ。デッキは十四層もあり、なんと八百人近い乗客と同じ人数の乗組員が乗船できるそう。


 船内では英語が基本で、従業員も大半が外国籍。

 だから、自然に呼びやすいようにユウという名前で通していた。


 最初はアプリ頼りだった船内も、今では知らないところがないくらいになってきた。


『よかった。その部屋の清掃なんだけど、さっき別の社員が行ったら、男性社員だからってNOを出されたのよ。事前確認だとそういう希望はなかったはずなんだけど……お願いできる? 私はここの最終確認を済ませるから、先に向かってちょうだい』


『了解です。行ってきますね』


 シャーリーさんは、きりっとした目で付け加えた。


『絶対に一人で入っちゃダメよ。ユウは子供みたいにちっちゃいんだから!』


『子供みたいは余計です! わかりました、ちゃんと離れたところで待っていますから』


 同僚たち曰く、私は子供みたいに幼く見えるらしい。


 落ち込みかけた気持ちを立て直し、カートを押しながら、私は教えられた部屋番号を目指す。


 数分後。ラグジュアリーなマホガニー材のドアから数メートルほど離れた位置で待機していた。

 部屋に入るのは二人体制であることが鉄則だ。その場でシャーリーさんが来るのを待つ。

 すると、突然、ドアが開いた。


 日本人だろうか。三十歳くらいの神経質そうな男性が立っていて、私の方を見た。


 上から下まで、まるで舐めるような視線の動き。違和感に、背筋がゾクッとする。


「君、清掃スタッフ? 日本人でしょ? いいね。入ってもらえる?」


 私は少し警戒しながら、社員規則に沿って日本語で回答した。


「申し訳ございません。掃除スタッフは二名でうかがわせていただくのが原則でして、もう一人が間もなく到着いたしますので少々お待ちいただけますでしょうか?」


「いいよ君一人で、ほら」


 そういうや否や。彼は突然、私の腕をつかんで部屋の中に引きずり込もうとした。咄嗟に両手を突き出して、突き飛ばすようにする。


「お、お客様! おやめください!」


 しかしまるで効いていなかった。強引な腕の引きが、私を部屋の中へ連れ込んでいく。


「いいじゃん。チップやるからさ」


「どういう意味ですか?!」


「だから。だろ?」


 とんでもない勘違い男すぎる! 頭の中が真っ白になる。


 悲鳴さえ上げられない私は、さっきより強い力で引きずられ、部屋の中に連れ込まれていく。


 ドアが閉まったら、たぶん逃げ出せない。シャーリーさんが言った通りになってしまった。


 その瞬間。


「貴様! 何をしている!」


 大きな声が聞こえてきたかと思うと、私の腕をつかんでいた男性が吹き飛んだ。

 いったい何が起きたのか理解するより早く、体を抱きしめられ、外へ連れ出される。その熱を、腕を、間違えるわけもない。


 見間違えることなんて、絶対にありえない。


「大丈夫か?」


 そこにいたのは、私がこの船で働く理由。



── 離婚を願う相手である夫の文月稔二、その人だった。



 震えている私を、稔二さんは突然抱き上げた。私が思わずしがみつくと、彼の熱と香りに体の奥が何かを訴えかけるようにうねるのが分かる。


 私はまだ、彼のことが好き。でも彼を、許せない。


 怒りと悲しみ、喜びがぶつかり合う。どうしていいのか分からなくて、逃げ出したいのに逃げ出せなくて。


 すると。


『ユウ! 大丈夫!?』


 シャーリーさんの声が聞こえた。私を抱き上げる稔二さんが、ぎくり、という動きをする。


「……ユウ? 君は、ユウというのか?」


 私は思わず、その言葉に頷いてしまった。


「そうか、ユウさん。大丈夫だ。あの男は部屋に閉じ込めてある」


 少しだけホッとしたが、私はまだ何も返事できなかった。声を出したらバレる可能性が跳ね上がる。


 裕理だとバレたら何をされるのか、その恐怖心の方が勝ってしまう。


 文月商事のCFO最高財務責任者という立場で御曹司の彼からしたら、私なんていくら妻という立場にあっても、何をされるか分からなかった。


 おまけに私は、手紙一つで逃げ出している。


 ここで連れ帰られるわけにはいかないし、琴浦さんにも迷惑をかけられない。


 私が考え事をする間にも、稔二さんは手身近にシャーリーさんへ今の出来事を説明し始めた。


『この部屋にいる男に無理やり連れ込まれそうになっていた。船長を呼んでくれ。彼女は私の部屋で介抱させる』


『えっ? あなたは……もしや文月さまですか?』


 青い目を丸く見開いて、シャーリーさんが言う。私はそうですと頷こうとしたが、瞬間的にこらえた。


 でも、いったいどこで稔二さんは乗り込んだんだろう。港に就航した時に、新しく乗船した人の中にいたらすぐにでも気づきそうなのに。


 稔二さんは頷くと、


『ああ。ダグラスから招待されたんだ』


 と、答えた。


 ダグラスは確か、船のオーナー一族の人だった気がする。あまり詳しく覚えていないけれど、稔二さんはその人に招待されて、とにかく船に乗り込んだんだ。


 すると急に、頭の奥が引っ張られるような感覚があった。


「大丈夫だ。もうここに、君を傷つける存在はいないよ」


 優しく囁く声に、私の意識が落ちていく。


 貧血だ、と思うより早く、目の前が真っ暗になってしまった。


「……ユウ、か」


 稔二さんがどこか、悔しそうにつぶやく声を聞きながら。



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