文月商事の
郵便受けから手紙を手に真紀子が席へつくと、即座にドアが開く音が響き渡った。
「奥村さん、朝からすまない」
文月稔二その人が、黒い切れ長の目に焦りを宿しながら立っている。
緩く波打つ黒髪。顔立ちは祖父がノルウェー出身のためか、日本人らしからぬ甘さと精悍さを兼ね備えていた。
その身長は百八十センチを超えている。体格に見合う整ったボディラインは、彼の日々の努力のたまものだろう。
ところが。仕立ての良いコートは大慌てで着てきたことが明白で、何ならジャケットの下に着ているベストのボタンが一つずれている。
真紀子は目を見開いた。
「まあ、稔二さま。どうなさったんです」
稔二がこんなにも朝早くから、しかも動揺しているなんて、何があったのか。
目的のためならどんな手でも使い、非常に冷酷で他人にも完璧を求める、優しさも思いやりのかけらもない超ドSの最低男が。
自身が秘書として仕える相手であるにもかかわらず、真紀子は思わず内心で罵倒していた。
文月商事の創業家である文月家の御曹司たる彼は、とてつもなく優秀だ。それは真紀子も認めざるを得ない。
現に彼は、若くして会社における確固たる地位を築き上げている。そこらの会社ではない。海外との取引額では日本国内で五本の指に入るような、文月商事内での地位だ。
大手企業の社長たちの間では、必ず勝ちたいなら稔二を頼れ、と言われるほどに、彼の腕は買われている。
しかし。彼はとにかく、他者に優しくない。
四十歳を超えた真紀子でさえ、幾度となく稔二には泣かされかけた。パワハラぎりぎり、いますぐ辞表をたたきつけたくなるような手厳しい批判を、数えるのもばからしくなるくらい受けている。
複数の理由を並べ立てなければ働き続けるのが困難なほど、真紀子は稔二を人間的に好きになることはなかった。
しかし今。真紀子の目の前で、稔二は焦り、動揺している。
「突然で本当に申し訳ないんだが、妻が、
稔二は真紀子の様子を見て、口早に言った。
「裕理の、一時的な気の迷いだろう。彼女は何か勘違いをしているだけだ。いや、見つかってもらわなくては困る。今週の土曜日には、姉さんと買い物にいくと約束していたようだからな。それに次のパーティーには彼女を同伴させたい」
真紀子は、自分が別に驚いているわけではない、と言いたかった。しかし稔二の名誉のために黙るだけの分別は持ち合わせている。
確かに稔二にとっては青天の霹靂で、突然の出来事だろう。
だが真紀子は、むしろいつか、こんな日が来るとさえ思ってきた。
二年前に稔二の妻となった裕理は、二十歳になったばかりのどこかあどけなさが残る女性だった。
結婚式で見た彼女は、稔二の腕の中で幸せそうにしつつも、悲壮感を帯びている。
父親を早くに亡くし、母子家庭で育った後、高卒で清掃会社に入ったという。そんな彼女は幸せを感じながら、自分の今までを捨て去り、文月家の嫁として生まれ変わる覚悟を決めた様子だった。
その一年後。彼女の実母が亡くなったと聞いて、真紀子はぞっとした。
もともと、母親は裕理が稔二と結婚する段階で進行のはやい悪性腫瘍を患っていたらしい。落ち込む裕理は稔二からの支えにより気を取り直し、やがて義実家である文月家の奥方にも可愛がられる本当にかわいいお嫁さんになっていく。
「真紀子さん。いつも、夫が世話になっております」
にこやかに微笑む彼女に、真紀子はいつも胸が痛んだ。
稔二の厳しさを知る身としては、裕理が不憫でならなかったのだ。
(でも裕理さんは、ついに離婚を選んだ……!)
やさしさのかけらもなく、傲慢で自分本位な稔二の本性に気づいた彼女は、自分の人生をかけて逃げ出したに違いない。
真紀子が心の中から盛大にエールを送っていると、稔二が言い放った。
「居場所は細崎に探させる。すぐに見つかるさ」
細崎。その名前に真紀子はギョッとした。
稔二が何かしらの情報を集める際に、最後の手として頼る引退した元刑事だ。老人という外見を生かし、長年の勘で確実に証拠を探り当ててくる。
「細崎さんに、ですか。でも奥様は離婚してほしいと……」
「離婚には大きく分けて2つの方法がある。話し合いで合意する『協議離婚』と、裁判所で解決する『裁判離婚』だ。少なくとも現段階ではこのどちらも俺は実現させないし、実現させる気もない」
そう言い切ると、稔二は執務室を疾風怒濤の勢いで出ていく。
真紀子は大きくため息をつきながら、天井を見上げた。
裕理が求める結婚生活や稔二との関係性が、彼が思い描くそれとは絶対に違うと真紀子は言い切れる。だが裁判関係のことで、裕理が稔二に勝てる見込みはほとんどない。最高財務責任者という立場から、稔二自身、相当法律に詳しいのだ。
弁護士を立てるにしても、文月家とやりあうと知ったら、引く者も多いだろう。
「裕理さん、無理していないと良いけど……」
思わず、真紀子は裕理の安寧を祈ったのだった。