アンジェさんの超人的思考、技術を見せつけられた僕は、数十分にして精神的に疲弊していた。
きっと、剣を習う日常を続けていたなら一生をかけても頭に入ることのなかっただろう知識の数々。ただでさえウルヴォグ騎士学園では座学分野は少ない。腕っぷしと剣筋だけでほとんどの成績をつけられる環境に身を置いていた僕の頭は既にクラクラで、少し眩暈がするほどだ。
「なんだ、明らかに疲れている様子だな? 全く……そんなことでは私の授業にはついてこれないぞ?」
「そんなことを言われましても……。まだアンジェさんの知識を教えてもらうだけならいいですが、空間魔術や無詠唱魔術を男の僕が使うなんて────」
「ん? おいおいちょっと待て。誰がそんなことを言った?」
「え?」
「いくら私の教えがあるとはいえ、空間魔術を使えるわけがないだろう? ちゃんと話を聞いておけ。ユウナに覚えてもらうのは、無詠唱魔術だけだ」
だけだ、と言われても。それだけでも充分に僕としては荷が重いことに変わりはない。
なにせ僕は男だ。女の人みたいに魔術を使える身体にないのだから、無詠唱どうこう以前に魔術そのものを使うことができないはず。
「あー、そのことか。それなら安心しろ。男でも魔術を使える方法はあるからな。ちゃんと、手取り足取り教えてやろう」
「ほ、本当ですか!?」
「本当だとも。そのために、まずは場所を移そうか。実際に使う練習もするなら、こんな狭い部屋では足りないだろう」
そう言って、アンジェさんは立ち上がる。そしてついて来いと言わんばかりに手招きをして、リビングの奥の扉を開いてその先へ進んだ。
この家のことを僕はまだ何も知らないけれど、リビングの他にキッチン、アンジェさんの部屋、僕が寝させてもらった部屋へ続く扉の他に、まだ一度も空いたところを見たことのない扉があった。それが、今開いた扉である。
ガチャ、とノブが回り、その先に続いていたのは部屋ではなく、僕がこの空間に来る前に歩いて降りた階段と同じようなもの。
「足元に気をつけろよ」
灯りで照らされていて、不気味さは一切ない。そんな階段を靴下のみを履いた足で降りて、約数十秒。
────そこには、草原が広がっていた。
「は、ぇ? 外……?」
「違うぞ。ここはちゃんと封印の中の閉鎖空間だ」
いつの間に持っていたのか、アンジェさんから僕がここに来た時に履いていた靴を渡されて、言われるがままにそれを履く。その間も、開いた口が塞がらなかった。
どう見たってここは外だ。芝のように手入れされた草原の根元に触れればそこには土があり、広く行き渡っている草原の先には小さな木造建築の小屋や、大きな木。その間に吊り下げられているハンモック、設置された三つの椅子と机。
まるで小説の中に出てくる富裕層の家庭の庭そのもの。いや、サイズ感で言えばそれを大幅に超えているけれど。
「で、でもほら、太陽だってありますよ!? 緩い風だって吹いてますし!」
「あれは灼炎魔術の火力を調整し、見た目を似せた擬似太陽だ。風の方はこの地下空間の天井に操風魔術を取り入れた魔道具を取り付け、不定期に風向き、風の強さなどを変更するよう命令付けをして自然になるよう調整している」
「…………」
なんというか、これ以上聞くのはやめようと思った。全てが初めて聞く単語で、眩暈を加速させる潤滑剤にしかならない気がする。
「言っておくが、これを作るのには相当苦労したんだぞ。ただでさえロッカーサイズの場所にコロッと封印されていたんだ。ジワジワ、ジワジワと空間魔術を展開し続けて、封印そのもののサイズを押し広げたわけだが。この地下空間の建設には百年ほどかかった」
封印を押し広げるって。凄く簡単に説明されたけど、この人は今とてつもないことをしたと宣言していた気がする。封印がどういうものか僕には分からないし、その強度も測りきれないけれど、押し広げられるものなどではないという確信はあった。
と、僕が隣で頭を押さえながら必死に現状を理解しようと脳を回転させていると、アンジェさんは小屋に向けて歩き出す。
「まあ、ひとまずは紅茶でも飲みながら基礎説明をしよう。魔術とは発想と学びの上に成り立つものだ。最低限、知識をつけてもらわないとな」
「紅茶、ですか……」
「む、嫌いか? ……あ、いや。すまない。そうか……」
紅茶と聞いて、僕の頭に浮かんだのは一人の女の子の笑顔。密かに想いを寄せていた、クレハさんがティーカップを手に、微笑んでいる姿だった。
僕の記憶を除き、今も心を読み取っているからこそ、その事をアンジェさんはすぐに察知した。
気を、使わせている。でも……
「いえ、大丈夫です。クレハさんのことを思い出してしまうのは、呪縛じゃありません。大切な……好きだった人の、記憶だからです」
クレハさんは死んだ。その事実は変わらない。でも、だからといって悲しくなるからと思い出すことすら拒むのか。それは絶対に違う。確かに少し寂しくなるし、悲しい。だけど────
「紅茶、大好きですから。ぜひ飲ませてください」
大好きな人の味を忘れるのはきっと、もっと悲しいことだ。