「おや? おやおや? 朝っぱらから営業するとは精が出るねえ」
本を受け取ってページをパラパラと捲っていると、来宮がロビーに姿を現した。
「おう、おはよう来宮。昨日は悪い意味で色々と世話になったな」
「おそよう、蜷川。昨日は良い意味で色々と楽しませてくれたね」
みごや館の住人にとって、この時間帯に起床して挨拶をする場合、おそようというのが共通のものとして認識されているらしい。彼方が起きてきたら早速試してみるか。いや、それ以前に彼方は部屋に引きこもりがちのようだが、あのままで大丈夫なんだろうか。部屋の電気は常に消しているみたいだし、外に出るときも寝巻き姿だったよな。あれはいつ寝ているのか分からないぞ。昼夜逆転していてもおかしくはないな。
「ちょっ、ちょっと琉衣、こっちに来なさい」
「なんだい、騒々しいな。私は腹ペコでお腹と背中がくっつきそうでくっつかないもどかしさを堪能しているところなんだけどね」
「あたしのこと、絶対にバラしたらダメよ? いいわね? じゃないと玖々の役降ろしてって言いつけるからねっ」
半ば強引に、伊流院は来宮をロビーの端っこへと連れて行く。そして小声で何事かを話しているようだ。真剣そうな伊流院とは対照的に、来宮は大きな欠伸をしているのが滑稽だ。
「……ま、待たせたわね」
「別に何も待っちゃいないんだが」
引きつった笑みを作って、伊流院はカウンターの内側に回って椅子に座る。その席は伊流院にとって定位置のようなものだ。他にも椅子が置いてあるが、さすがに隣に座ったら怒られそうなので止めておこう。
「それで? 下りてきたってことはあたしに何か用があるんでしょ」
ロビーに顔を見せるイコール伊流院に用事があると決まっているわけでもあるまい。変なところで自信に満ち溢れているよな。まあそれも伊流院にとって魅力の一つなんだろうけど。
「飯を食いに行こうと思ってな」
それはちょうどよかった、と伊流院は本を置いて席を立つ。
「あたしもついてってあげるわ。場所は竜宮城でいいわよね?」
「ああ、俺もそのつもりだったから構わないぞ」
むしろ竜宮城以外に食べる場所を知らない。
「いい提案だね。私も是非ついていこうじゃないか。拒否権を発動した場合は淫乱の淫乱な秘密についてついうっかり口を滑らしてしまうかもしれないからそのつもりでいてくれよ」
「言ったらぶっ飛ばすわよっ」
昨日は来宮を除いた三人で飯を食べたからな。しかも食べに行ったところは来宮の実家というオマケつきだ。だからこれは来宮流の仕返しなのだろう。俺にも被害が及びそうだが、現時点において標的は伊流院ただ一人なので特に問題はない。口を挟んだら飛び火しそうだ。
「因みに男を実家に呼ぶのはこれが初めてだね。どうだい、蜷川。嬉しいかな?」
油断していたらこれだからな。あっという間に飛び火するのが来宮の凄さだ。
「あー、それ以上言うな。俺は聞かなかったことにするから早く出かける用意をしろ」
勘違いさせるようなことを言わないでもらいたい。ここで素直に嬉しいといえばどんな未来が待ち受けているのか考えるだけでも恐ろしいぞ。俺をからかって遊んでいるところをファンクラブの奴らに見られたりでもすれば、いったいどうするつもりだ。
いや、もしそうなったら俺がリンチ及び半殺しに遭うだけか。そしてそんな俺を高いところから見下ろしながらシニカルに笑う来宮の姿が容易に想像できる。ファンクラブの奴らが来宮に愛想をつかす状況がまったく思い浮かばないのも、一種のカリスマ性を持っているのが要因の一つとして挙げられそうだ。そもそも人を惹きつけるだけの何かを持ち合わせていなければアニメの声優などやっていけないだろうからな。