今にも怒鳴り出しそうな様子で、彼女は俺の名前を口にする。
「そうだけど……。ひょっとして、君が大家さんか?」
「伊流院よ。名前ぐらいしっかり憶えなさい。じゃないとぶっ飛ばすから」
「物騒だな、おい」
些か口の悪い彼女は、どうやら俺が待ち合わせていた人物のようだ。
だがしかし、何をそんなに怒っているのか俺には分からない。
大げさに溜息混じりの声を上げる彼女は、あからさまに嫌そうな表情を向ける。
「待ち合わせに二時間も遅れるってどういうことよ? あたしが納得できるようにちゃんと説明してくれるんでしょうね?」
ああ、なるほど。だから怒っていたのか。そういえば飛行機に乗るときに携帯の電源を切ったのを忘れていた。
今何時なのか確認してみると、確かに待ち合わせ時間に遅れている。バスを乗り継ぐ途中、近くにあった書店に寄り道したのが原因か。
「すまん、道が混んでたんだよな」
さり気なく嘘をつくのは、もはや癖になっているかもしれない。
「……まあ、いいわ。渋滞なら仕方ないし」
そう言って、彼女は片手を差し出してくる。
「荷物持ってあげるから貸しなさい。但し一番軽い奴よ」
「おお、気が利くな」
「少しは遠慮すればいいのに」
ぶつくさと文句を言いながらも彼女は手提げ鞄をひったくり、一人で商店街の方へと歩いていく。慌ててその背中を追い、俺は彼女の横に並んだ。
「伊流院って大家さんとどんな関係なんだ」
「あんたが今日から住むホテルは、あたしの親がオーナーなの。理解できた?」
「つまり伊流院の両親が、大家さんってことか」
「そういうこと。因みにホテルの責任は全てあたしに一任されてるから、迷惑行為はお断りよ。もし夜中に騒いだりしたら追い出すから、そのつもりでいなさい」
「あいよ」
契約したのはアパートだと聞いていたが、やはり一度物件を見てから住むところを決めた方が利口だったか。
――否、ホテルというからにはそれなりに小奇麗な印象を与えてくれるだろうし、少なくともアパートより住み心地は良いはずだ。それになんといっても、ホテルの大家さんならぬ管理人さんが彼女なのもポイントが高い。
何故かって? そりゃもちろん彼女――伊流院が可愛いからに決まっているじゃないか。
スポーツ万能説を主張するのが目的と言わんばかりの健康的な小麦色の肌に、ショートカットの髪型がよく似合っている。吊り目がちな瞳が伊流院の顔を特徴づけ、目線は俺の顎の辺りに落ち着く。少しばかし上から目線の喋り方が性格として如実に描かれているかのようだが、それを補って余りあるほどに、伊流院の堂々とした態度には前向きな印象を与えられてしまう。
口の悪さ以外に欠点を上げるとすれば、残念な胸ぐらいだろうか。
どれぐらい残念かというと、つい今しがた通り過ぎていった小学生の女の子と同じぐらい残念だったといえば分かってくれるだろうか。しかしだからといって悲観することはない。世の中にはそういう趣味の人間もいるんだから胸を張っていいはずだ。
「……ちょっとあんた、さっきからじろじろと何を見てんのよ」
「え? いや別に何も見てないぞ。自意識過剰なんじゃないか?」
足を踏まれた。
出逢ってからまだ十分にも満たない初対面の人間に、力を加減することなく。
口は災いの元だな。少なくとも伊流院の前でバカなことは言えそうにない。
無言で歩くのを再開した伊流院の横にもう一度並んで、住宅街へと入っていく。やがて静かな場所に出ると、伊流院は足を止めた。