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【一章】

『とっととくたばれ、この変態紳士ッ』

 まず、否定させてもらうけど、オレは別に変態ではない。それを踏まえた上であえて言わせてもらうわけだが、変態と言う名の紳士淑女に罪はない。憎むべきは変態的な存在を糾弾するべきであると声も高々に言ってのける自称変態ではない人々と、その意見に何ら疑問を抱くこともなく同調してしまうような、如何にも周囲の空気に流されやすい愚かな奴らだけなんだ、と口早に説明してみた。

 その結果、もれなく同じクラスの女の子(仮にHさんと名づけよう)から急所に蹴りを戴き、ついでとばかりに嫌悪感丸出しの辛辣なお言葉を頂戴したのはまだ記憶に新しい。

 確かにHさんは同じクラスの中でも飛びっきりに可愛い女の子であることは言われなくとも理解しているつもりだ。それどころか学年で、いやいやこの学校に通う女生徒全体で見ても頭一つ飛びぬけて可愛いのではないだろうか。オマケに性格も明るく、どんな奴にだって別け隔てなく接してくれる天使のような存在だ。この世に男として生まれたのであれば勿論、たとえそれが彼女と同じ女性であったとしても、是非ともお近づきになりたいと考えるのは当然と言えるだろう。

 しかしまあ、だからといって何らかのアクションが起こるのではないかと期待して話しかけたわけでは、決してない。Hさんが恥ずかしそうに俯きながら困っている姿を見てしまったオレが、下心(は多分)無く、善意を持って行動してみたが故の結末が、コレだ。

 水泳の授業が終わった後、彼女の下着が無くなったとの噂を耳にしたオレは、Hさんが今現在スカートの下に何も穿いていないのではないかというあからさまにエロい展開が待ち受けていそうな偏った妄想をしつつ、と同時にその悩みをあっという間に解決できるのはオレの他には存在しないであろうことを早々と理解し、早速行動に移してみる。

 それでだ、無事にHさんの下着を見つけ出すまでには至ったわけだが、なんていうべきか、ほんの少しだけ解決を急いたのが原因で、なんとも残念な誤解をされてしまった。

『そ、そこで何してるの……?』

 無くなった下着は、女子更衣室にあった。無人の更衣室にお邪魔し、Hさんが使用したと思われるロッカーを開けてみると、二段組になっている棚の裏に引っ掛かっていた。よく見ればすぐに気づくはずなのに、どうやらHさんはおっちょこちょいのようだ。

 やれやれ、これで問題解決だな、と思ったのも束の間、後ろから声をかけられて振り向いてみれば、そこにいるのはHさん。そしてその背後には同じクラスの奴らの姿がちらほらと確認できる。……ああ、死んだな。社会的に存在を抹殺される数秒前、では今からカウントダウン開始です、と愚痴りたい気分だ。

 ここで冒頭に戻り、言い訳じみた台詞を口にしてみた甲斐も空しく、僅か半日足らずでオレ=変態との公式が校内において正式に認定されることになってしまったわけだ。

 いやいやちょっとまて、Hさんはオレのことをただの変態とは呼ばずに変態紳士と呼んでいたよな。それはつまり『わたしの下着を見つけてくれてありがとう、でも皆の前では恥ずかしくて素直になれないからせめて紳士と呼ばせてほしい』といった隠しメッセージが込められてい……るわけがない。オレは阿呆か。否、変態紳士の間違いだ。

 というわけで翌朝には学校に行きたくないから家に引きこもってゲームしたり漫画読んだりネットサーフィンしたりするんだ病(通称ニート、じゃないか。一応学生だし)にかかってしまったオレは、その日を境に不登校となりましたとさ。めでたしめでたし。


 ちくしょう、一度でいいから彼女が欲しかったぜ……。


(了)






















 とはいえ、そう簡単には終わらないのが人生って奴だ。中学三年生の夏の時点で引きこもりになってしまったとしても、これはこれで引きこもりになる時期がよかったのではないかと今更ながらに思い返してしまいそうになる今日この頃だったりもする。

 オレだって人並みに人生の墓場って奴をこの身を持って体験してみたいと思っているし、そうなるまでは絶対に死んでたまるもんかと息巻く予定だ。たとえそれが後に後悔しか生み出さないと断言されようがな。

 中学校を卒業すれば、人は皆、高校生になる。そうなれば今まで同じ学校に通っていた奴らとは異なる、県外の高校に進学する道を選択することも可能だ。

 まあなんだ、これは別に変態紳士と罵られることに耐えられなくなって逃げるわけではなく、いわゆる高校生デビューというものを実践してみるのも面白いかもしれないな、と考えてみただけなので勘違いしないように。

 実際のところ、オレの両親は父さんも母さんも仕事の関係で一年のほとんどを海外で過ごしている。日本に帰ってくるのはお盆と正月、あとはゴールデンウィークに限られ、県外の高校を受験することに反対はしなかった。因みにオレには妹が一人いるのだが、兄であるオレを差し置いて、既に県外の有名進学校で寮生活をしているので、妹もまた顔を合わせる機会は春休みと夏休み、そして冬休みに限定されている。

 兄弟の仲は良くない(妹が一方的にオレを嫌悪している)から、オレが実家を離れようが別段、問題はないだろう。そんなわけで引きこもりを始めてから数ヶ月、都内の高校に無事合格することができた。が、その過程において裏技っぽい手を駆使したことは家族以外に感づかれないように細心の注意を払うことにしよう。

 というわけで三月下旬。卒業式でさえも出席を拒否して引きこもり生活を最後の最後まで満喫してみるという堕落の選択肢を選んでしまったオレは、実家暮らしの人間であれば誰もが一度は憧れたことのある(かもしれない)、一人暮らしと言う名の自由を手に入れるために単身、上京するのだった。まあ、ぶっちゃけ今の今まで一人暮らしっぽい生活を送っていたわけだがな。しかしながら両親の思惑にまったく気づいていなかったオレは、それが一人暮らしをするためのアパートではなく、大学時代の知り合いの家に居候する形であったことを、つい今しがた理解することになる。

 だってほら、よく見てみろよ。オレを出迎えてくれたのはアパートやマンションといった類ではなく、誰がどう見ても一軒家にしか見えないじゃないか。目を凝らしたら形が変わるわけでもあるまい。今この場所に辿り着くまで、オレはこれから三年の間お世話になるであろうアパートが実はアパートではありませんでした、という事実をまったく知らされていなかった。というか何一つとして聞かされていなかったわけか、オレは。両親の信頼度は限りなくゼロに近いってことを無理矢理に実感させられたぞ。両親に一杯食わされたことに溜息を吐き、改めてオレは目の前に佇む一軒家を観察してみることにした。

 二階建ての一軒家は、一階を店舗とした住居兼雑貨屋っぽい。いや、雑貨屋というよりは何でも屋の方がしっくりくるか。

 硝子窓から店内の様子を確認してみたところ、種類問わず様々な物が無造作に置かれている。『閉店してないね』と書かれた札のかけられたドアの前に立ち、商品によって築かれた山々の最奥に存在すると思われる、未だ姿の見えぬ店員に気づかれないようにゆっくりとドアノブを回して、中に入ってみた。ふと、視界に捉えた本棚の奥を見てみれば、埃をかぶった漫画本が巻数順に並べられている。以前はきっちりと陳列していたであろう形跡が見られたが、長い年月をかけて地層を生み出すかのように、値札の貼られていない商品が空いたスペースを侵略していったのか、今では見る影も無い。なんと呼べばいいのか悩む必要すら皆無、正にここは〝ごみ屋敷〟と称するに相応しかった。

「やあ、いらっしゃい。今日は何をお探しで?」

 眉根を寄せたまま店内を見渡していると、何処からともなく声をかけられる。

 声の主を捜そうにも商品が邪魔で何処にいるのか見当もつかない。天井には防犯カメラも設置されていないみたいだし、これじゃ万引きされ放題だぞ。

「商品が多すぎてどこにいるのか分からないんですけど」

 商品が邪魔で、とはさすがに言わないことにした。仮にも売り物だからな。

 するとオレの声に反応し、声の主がくっくと喉を鳴らす音が聞こえた。

「おぉい、キミの耳は節穴かい? 私のいる場所が分からないとは困ったものだね」

 初対面の人間に、それもお店に入ってきたお客に対して随分な言い様だ。この家の住人はこんな無礼な奴を雇っているのかよ。ただのバイトかもしれないけど、どう考えても人選ミスとしかいえないぞ。

「くふふっ、……ほら、こっちだよこっち。キミのすぐ後ろにいるじゃないかい」

「うわっ」

 ふー、と首筋に息を吹きかけられた。ぞぞぞっ、と不意打ちに肩を震わせる。

「いいいいきなり何しやがるっ」

「んー? 鈍感なキミに一刻も早く私の存在に気づいて欲しくて背後から忍び寄りそっと息を吹きかけてあげただけだが、果たして今の一連の動作に何か問題でもあるのかな?」

「大有りだ!」

 店内であることを忘れ、人目を気にせずに大声を上げてしまい、オレは慌てて口を閉じる。そんなオレの姿をじっくりと値踏みし、意地悪そうな笑みを浮かべながら店員が呟く。

「心配は無用さ、店の中にいるのは私とキミの二人だけだからね」

「そ、そっか……」

 他のお客に迷惑をかけていないと知って安堵した。

「そう、キミと私の二人きり。……興奮、する?」

 可愛らしく小首をかしげ、訊ねてくる。

 する、とは言えまい。というかいったい何なんだこの店員の態度は。人をおちょくって楽しそうに口元を緩めるなんて性格が悪いにもほどがあるぞ。

「まあそんなに怒らずにこっちに来るといいさ。客商売は笑顔が一番だからねえ」

 質問の答えを聞く前に、店員は店の奥へと隠れてしまう。後を追うと、商品の山に埋もれたレジカウンターを発見した。椅子に座って栞の挟まった読みかけと思しき漫画を手に取る店員に、半ば呆れながらオレは口を開くことにした。

「あのさ、この家の人に用事があるから呼んできて欲しいんだけど」

「どんな用事があるんだい?」

 くいっ、と左手の中指で眼鏡の位置を調整し、上目遣いにオレの顔を瞳に映し出す。

「……いや、だから用があるのはこの家の人であってキミではないんだけど」

「ふむぅ、キミは耳だけでなく目も節穴のようだね?」

 どういう意味だ。何度も何度もオレの心を少しずつ抉り取るような言葉をぶつけてきやがって、性格だけじゃなくて口も悪い奴だな。この店員と出会った途端、精神的ダメージが限界値を振り切らんばかりに蓄積されていくぞ。

「いいさ、おバカさんなキミのために私が一から説明してあげようじゃないか」

 漫画本を閉じて、ゆらりと立ち上がる。オレよりも身長が低いのか、目線は少しばかし下を向けることになった。

「店の名前は架織乃骨董屋。家の表札は架織乃。そして私の名前は架織乃胡桃。つまりは私がこの家の住人だってことさ。ちゃんと理解できたかな、おバカさん?」

「えっ、……キミが?」

 俄かには信じられない、とは言えないか。家主ならなんとなく納得できないこともない。

 仮に、彼女がただのバイトであった場合の方が大問題だ。……勿論、家主だろうがバイトだろうが態度がすこぶる悪いことに変わりはないんだけどさ。

「そうだとも、私が架織乃骨董屋の責任者ということになるわけさ。ところでキミはいったいいつになったら私の質問に答えてくれるんだい?」

「質問? って、何か訊かれたっけ」

「キミは記憶力も乏しいのかい? キミと私のファースト・コンタクトにおいてキミが何を探しに架織乃骨董屋に足を踏み入れたのかについて訊ねたじゃないか」

 ああ、そういえば確かにそんなことも言われたかもしれない。声の主が何処にいるのか捜していたから忘れていたよ。だがオレは別にお客として此処を訪ねたわけじゃないんだ。

「ええっと……、キミが家主ならさ、今日からオレが此処に住まわせてもらうことを両親から聞いていると思うんだが……何も聞いてないか?」

 そう言って、オレは彼女の姿を視界に捉える。

 家主と呼ぶには随分と歳が若いように見えるのは気のせいではないはずだ。下手したらオレと同い年なんじゃないだろうな。

 真っ直ぐな黒髪を腰まで垂らした彼女は、口角を上げて意地悪そうに笑みを浮かべている。ほんの少し丸みを帯びた四角い眼鏡は、フレームの上半分が赤、下半分が黒に染まり、彼女の表情に奇抜さを加えているように感じた。身長はそれなりに高いほうで、すらっとした体型だ。つまり何が言いたいのかというと、胸はでかくない。勿論、小さいわけではないのだが、顔を埋めるほどの大きさではないってことだ。肉付きが悪いのかな、抱きしめても折れてしまいそうな印象が残る。自己紹介をされた時にピンときたが、胡桃って名前からして骨董品っぽく(ああそうだよダジャレだよ悪いか)、性格や口調は頗る悪いってことが分かったけど、もし将来的に彼女と付き合うことになるとすれば、さながら骨董品であるかの如く大事に大事に接しなければ壊れてしまいそうな脆さを持ち合わせている。

「キミの疑問に対する返事をするべきなんだろうけど……、んー、なんだろうね、キミの視線が物凄く失礼に見えるわけだが、もし良ければ目を潰してもいいかい?」

「やめろ」

 即、拒否する。潰されたら目の保養ができなくなるから勘弁してもらいたい。

「ははは、冗談だよ冗談。と言っておけば何を言っても許されるから便利な言葉だね」

 どうでもいいからとっとと話を進めてくれ。彼女と言葉を交わすだけで精神的な疲労がとんでもないことになりつつある。

「で、返事をする前にだ、まずはキミの名前を教えてもらえないかな? そうしなければ私はキミが信頼に足る人物か否か理解することすら困難だからねえ」

 片目を閉じ、右の掌を向けて促してくる。そういえばまだ自己紹介をしていなかったな。

 コホンッ、と小さく喉を鳴らし、口を開く。

「オレの名前は釣枝比念。四月から虹ヶ丘高校に通うために上京してきたんだ」

「ふんふん、キミが噂の釣枝比念か。まあ自己紹介されなくともキミの両親から今日の午後には我が家に着く予定だと連絡が来ていたから初めから分かっていたんだけどね」

 連絡が来ていたことに一安心だ。しかし回りくどいな。第一印象が微妙になったぞ。

「そういえばなんとなく見覚えのあるような顔だねえ。でもやっぱり憶えてないから見覚えはないってことで一つよろしく頼むよ。因みに私の名前を呼ぶ時は胡桃でいいさ」

 彼女、胡桃はレジカウンターの引き出しを開けて写真らしきものを一枚取り出して、オレの顔と写真とを、交互に視線を向けて呟く。

「なんだ、その写真にオレが写ってんのか?」

 一歩、胡桃に近づいて、写真を覗いてみる。写っているのは小さい男の子と女の子だ。

「これ、キミだろう? 随分と前に釣枝家が我が家に遊びにきた時の写真だよ」

「……すまん、憶えてないな」

 窮地に追い込まれた悪徳政治家ってわけではないが、まったく記憶に御座いません。

「ってことは、胡桃はオレとは初対面じゃないのか」

「そんな分かりきったことを訊ねられても困るさ」

 恥ずかしそうに視線をそらし、頬を染め……ていない。そりゃそうだよな、誰がどう見ても演技なんだから。何が困るんだかお訊ねしたいものだ。

「見るかい」

 写真を手渡される。片方はオレだ。昔の写真とはいえ、さすがに自分自身の顔が分からないほど間抜けじゃない。んで、その隣でオレと手を握って満面に笑みを咲かせた女の子は誰なのか。……もしかして胡桃か。いやいや、もしかしなくても胡桃なのか。

「なあ、この女の子は――」

「妹さ」

「あ、……そっか」

 少し残念に思ったのは隠しておこう。胡桃にバレたら冷やかされそうだからな。というか写真の中のオレは随分と胡桃の妹と仲が良さそうだな。昔の自分をぶん殴りたくなるぞ。

「胡桃にも妹がいるんだな」

「そういうキミにもいるじゃないか。ええっと、名前は確か……」

「どうせ会うこともないから憶えなくていいぞ」

 少なくとも今の時点では出番がなさそうだから。なんてな。

「まあいいさ。とにかく今日は早々に店じまいしないといけないね」

 高く積み上げられた商品を倒さないように、足元に気をつけながらオレの横を通り抜け、お店の入口へと軽やかに進みゆく。『閉店してないね』の札を引っくり返して『開店してないね』が表を向くようにすると、ドアの鍵を閉めた。

「さて、ほんの少しだがそこで待っていてくれたまえ、ちと部屋の中が散らかっていて恥ずかしいものでね、迅速に片付けてくるさ」

 肩を竦める仕草を披露し、暖簾(のれん)に隠された未知なる領域――更にお店の奥へと姿を消してしまった。トントントン、と軽快に階段を上がる音が響く。結構短めのスカートを穿いていたからな、暖簾が無ければ後姿を拝みたくなるところだった。やがて足音が聞こえなくなると、一人取り残されたオレは手持ち無沙汰で、改めて店内を見渡してみる。

「骨董屋ねえ……」

 このお店のいったい何処に骨董品が置いてあるというのかね。

 商品の種類があまりにも多すぎて、何を専門に取り扱っているのかさえ不明だ。そもそもお客が来るのかどうかさえ甚だ疑問だ。

「いや、ちょっとまて、店内が荒れ放題なのに部屋の中を片付けてくる……? これ以上に足の踏み場がないってことなのか……?」

 店内がまるでごみ屋敷だというのに、部屋の中はそれ以上に散らかっているとでも言うつもりか。架織乃家にオレが住める場所が存在するのか不安になってきたぞ。

「……ん?」

 椅子に座り、胡桃が姿を現すのを店内で待っていると、お店の入口付近でガタガタと音が聞こえてきた。こんなお店(酷い呼び様だが、他にはごみ屋敷としか言い様が無い)にお客が来るとは驚きだ。何を求めて足を運んだのか興味が沸く。だが残念なことに、つい先ほど胡桃がドアの鍵を掛けて閉店しやがったから店内を見て回ることは不可能だ。

「しかし粘るな……」

 椅子から腰を浮かせ、恐る恐る入口へと近づいてみる。

 お店のドアには『開店してないね』の札がかかっているわけだし、暫くすればお店が閉まっていることに気づいて諦めるだろうと考えていたが、一向に帰る気配がない。それどころか、ドアをノックしながらも店内を確認しようと硝子窓からひょっこりと顔を覗かせているじゃないか。そんなに欲しいものがごみ屋敷にあるのか。どれだよ、教えてくれ。

「お、わっ」

 胡桃は二階から下りてくる気配はないし、どうすりゃいいんだと眉根を寄せていると、硝子窓越しに目が合った。どうやら女の子のようだが、オレや胡桃と同じぐらいか、それかもう少し幼く見える。てっきりじいさんばあさんが客層の大半を占めると考えていたんだが、架織乃骨董屋がますます理解できなくなってきた。と、その瞬間、女の子はまるで時が止まったかのように動かなくなる。やべえ、居留守使っているとでも思われたか。

「おーい、胡桃。お客が来てるぞー」

「まーだだよー」

 かくれんぼか。

 いつまでたっても胡桃は下りてこない。視線をお店の入口へと戻してみると、女の子はオレの顔を見つめたまま固まっている。どうすりゃいいんだよ、おい。

「……ったく、仕方ねえな」

 女の子の様子を見るに、これは直に会って閉店していますと言わなければ納得しないだろう。下宿先に着いて早々なんで店員の真似事をしなくちゃならないんだかな。

 商品を倒さないように入口へと移動し、鍵を開けてドアの外に出る。お店の前にいたのは、学生服に身を包んだ可愛らしい女の子だった。

「あー、すみません。今日はもう閉店しちゃってるみたいで……、いやあの、オレは別に店員ってわけじゃないんですけど、なんていうかその、お店の人が勝手に閉めちゃったんで……って、聞いてます?」

「……ね、ん」

 ぽつりと呟く。

 オレの顔を瞳に映しこみ、ぷるぷると震えている。なんだなんだ、オレの顔は見るに耐えないってか。Hさんから変態紳士と呼ばれたオレでもさすがにこりゃ傷つくぞ。

 が、女の子は予想外の行動に出る。

「うわえおあっ」

 あろうことか、お店の前で堂々と抱きついてきやがった。

 何打コレは、いやなんだこれは、いきなりフラグが発生しましたってか。

「比念!」

 ぎゅうっと、あらん限りの力を振り絞って抱きしめる女の子は、オレの名前を呼んだ。

「ちょっ、あの、えええっ?」

 意味が分からないよ、これ。誰か助けて――いやごめんやっぱ助けなくていいや。

 とてもいい匂いがオレの鼻孔をくすぐる。別に香水をつけているわけでもないのに、なんでこんなに脳を刺激するような匂いがするんだ。これが女の子特有の匂いって奴か。それだけでなく、これでもかと言わんばかりに膨らんだ胸の感触が思考を停止する。抱きついたままオレの顔を見上げる女の子は、嬉しそうに口元を緩め、「会いたかった」と呟いた。変態紳士にも遂にモテ期到来か。

「おや、お帰り。今日は早かったんだねえ」

 軽めのトリップを満喫していると、いつの間にやら胡桃がお店の入口に立っていた。

「こ、胡桃! この子……知り合いか?」

「くくっ、知り合いもなにも愛すべき私の妹だが?」

「いっ、妹だと?」

 そういえばさっき見せてもらった写真にオレと一緒に写っていたのは妹だったな。仲睦まじく手を握っていたっけ。なんだか更に恥ずかしくなってきた。

 意地悪そうに微笑する胡桃から、その妹へと視線を戻してみる。

 オレの反応を見た胡桃の妹は、何故か眉根を寄せた。

「比念……?」

 胡桃とは異なり、妹の方はオレの顔を憶えているらしい。

 だが残念かな、オレは彼女の名前はおろか、顔すら憶えていない。写真に写る姿から推理するに、幼い頃は懐かれていたんだろうなとは思っていたが、まさか現在進行形でいきなり抱きついてくるほどの間柄だったとはな、想定の範囲外だ。

「こんばんは、えっと……」

 次に続く言葉が出てこない。だってオレは胡桃の妹の名前を知らないんだから、なんて呼べばいいのか分からないからな。どうすりゃいいんだ。

「名前、憶えてないの?」

 と、そんなオレに向けられたのは、疑念の込められた一言だ。

「あう、……ごめん」

 相手は憶えていて、こっちは憶えていない。逆の立場になれば分かると思うが、相手に対して申し訳ないという気持ちが罪悪感へと変貌しそうだ。

「じゃあ、約束も?」

「約束? あー、うーん……」

 目が泳ぐ。オレはこの子と何か約束を交わしていたのか。

 小さな脳みそ以外何も入っていない頭をフル回転して記憶の引き出しを探ってみるが、それは無駄な足掻きのようだ。まったく思い出せない。

 オレの様子を見て、胡桃の妹は明らかに落胆していた。

「訓夏。……わたしの名前は、架織乃訓夏です」

 哀しそうに瞳を潤ませて、胡桃の妹――訓夏はオレから一歩距離を取る。柔らかな感触が遠ざかってしまったことに心残りが生まれてきた。彼女の名前さえ憶えていれば抱きしめ返すこともできたかもしれないというのに、オレはなんて勿体無いことをしてしまったんだ。自らの手でフラグを一つへし折っちまった。

「く、訓夏ちゃんか」

 慌てて名前を呼んでみるが時既に遅し、気づけば一定の距離を保たれているじゃないか。

「どうだね、可愛い妹だろう? この世で私よりも可愛らしい生き物が存在するというのであれば、それは間違いなく、くんかたん以外にはありえないさ。……キミ、惚れる?」

「お姉ちゃん、うるさい」

 オレから距離を取る訓夏とは対照的に、胡桃はオレの肩に手を置いて耳元でぼそぼそと囁く。とはいえ最後の一言しか声のトーンは小さくなかったので訓夏には丸聞こえだ。案の定、怒られてやがる。そして何故喜ぶ、胡桃。

「へえ、くんかたんって呼ばれてるんだ?」

「忘れん坊には何も教えるつもりはありませんね」

 うわ、態度が一転、冷たくなったぞ。フラグへし折ったらバッドエンド直行かよ、おい。

「そ、そっか」

「……ですが、どうしても比念が知りたいのなら、教えてあげないこともありませんが、そもそも比念はわたしのことをくんかたんなどとは一度も呼んだことがありませんから特に知る必要はないと思いますけど、でもそれを言うなら比念が何も憶えていないことの方が問題であり原因に当たるわけですから自覚するべきだと思います」

「え、あー、……うん?」

 ごめん、何を言いたいのかよく分からなかった。オレが、何を、自覚すればいいんだ。

 すぐ横から、胡桃の苦笑する声が聞こえてくる。横目に確認してみれば今にも吹き出しそうになった胡桃の姿があった。こいつはこいつで何がおかしいんだよ。

「というわけでだね、今此処に我が〝ごみ屋敷〟の住人が勢ぞろいしたわけだよ」

 さっきから〝何が〟を連発している気がするが、だから何がというわけなんだよ。

 っていうか、今こいつ自分の家をごみ屋敷って言いやがったぞ。オレは自分が何を自覚しなくちゃならんのか分かっちゃいないが、胡桃本人はどうやら架織乃骨董屋がごみ屋敷さながらな現状を把握し、現実から目をそらしてはいないようだ。が、直視しておいてこの調子なわけだから、なお悪いような気がする。せめて掃除してくれ。

「此処は両親が開いたお店なのだがねえ、見ての通り、架織乃骨董屋の店内はごみ屋敷と化しているさ。近隣住民にもその名で通っているよ」

「一度見れば誰でも納得しちまうわな」

 ごみ屋敷とはいっても匂いがきつかったりカラスが集ったりごみを放置したりするわけじゃないだけまだ良心的といえよう。自分の敷地内にしか被害を出していないからな。

「さあて、堅苦しい挨拶は抜きにしようじゃないか」

「ん?」

 胡桃はオレのそばを離れて訓夏の横に並び立つ。

 悪戯っぽい笑みを浮かべ、ゆっくりと深呼吸をしてみせる。胡桃の性格を理解しつつあるオレは、声に出して指摘するつもりはないが、如何にも大根役者的な演技をしていますよって空気をかもし出す。間を置いて、チラッとオレの様子を確認しているのがあからさますぎて笑えない。きっと、指摘すれば嬉々として反応するんだろうな。勿論、面倒だから黙秘だが。

「釣枝比念、ごみ屋敷へようこそ!」

 そう言って、胡桃は右手を差し出してくる。握手か。

「おう、ありがとよ」

 罠を仕掛けられているわけでもないので、オレは素直に胡桃との握手に応じる。その手はとても温かい。そして柔らかかった。……いや、別に興奮はしていない。

 次に、視線を訓夏へと移してみる。しかしながら訓夏は、何故だか頬を膨らませたままそっぽを向いていた。

「えーっと、訓夏ちゃん? 握手は……」

「しません、比念なんか嫌いですから」

 うぐっ、面と向かって……ではなくそっぽを向いたままだが、女の子から嫌いだなんて言われるのはこれが初めてだ。こいつは精神的ダメージがとんでもないことになるぞ。限界値をあっという間に振り切りやがる。なんかこう胸の辺りがぐぎゃああんって擬音を発しながら締め付けてくるようだ。意味不明とか言うなよ。でもそれだと肉体的にもダメージがあるってことになるな。これから先しっかりとやっていけるのか一抹の不安ががが。

「ちゃん付けは、子供っぽいので拒否なんです」

「あ、そういうことね」

 嫌われていないっぽいのでホッとした。……いやいや、違うだろ阿呆が。わざわざオレの名前を呼んだ上で嫌い宣言されたわけだから安堵している場合じゃねえぞ。

「……それじゃあ、訓夏?」

 胡桃と同じように、訓夏の名前も呼び捨てにしてみた。すると効果覿面って奴かどうかは分からないが、訓夏は正面を向いてオレと目を合わせる。それから、おずおずといった様子で右手を差し出した。

「……握手、します」

 少々強引に、訓夏はオレの手を握る。

 いきなり抱きついてきて微笑んだかと思えば、一転して距離を取り、可愛らしい瞳を潤ませてみせる。そして最後には、握手を交わすためにオレの手を握ってくれた。

「胡桃、訓夏。これから暫くの間、お世話になるよ」

「うむ、扱き使うから楽しみにしておいてくれよ、キミ」

 まあ、とりあえずは、というわけで今日から架織乃家と言う名のごみ屋敷での新しい生活が始まるわけだ。そう考えると今にも心が弾んでくる気が……やっぱりしないか。

 不安だ……。


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