ぽちゃん、ぽちゃん、と水が落ちる音がする。
そこはゴツゴツとした岩だらけの、薄暗い洞窟だった、あちこち発光している水色の水晶があり、それが辛うじて光源となっている。視認性が低い。なんかじめじめしているし、寒いし、嫌な場所だなとミノルは思った。
「というかさ」
後ろを振り向く。さっき自分達が入ってきた緑のドアは、跡形もなく消えていた。
「この出入口って、毎度毎度一方通行なわけ?え、マジで不便……」
「ゲームでもそういう仕様なんだからしょうがないっす」
ミノルの言葉に、社は肩をすくめた。
「どっちみち、目玉が出現しちゃったエリアに戻るのは得策じゃねえっすよ。レーザーで狙い撃ちされている空間になんか戻ったら一発でハチの巣だし」
「そりゃ、そうだけどさ」
「それよりも……残念なお知らせっす」
彼は言いながら、適当な壁をごしごしとこすった。自分は気づかなかったが、何やら岩壁に文字が刻まれていたらしい。目を凝らしてみると、こう読める。
『№223 黒猿の洞窟』。
どうやら、ここはそういう名前のエリアらしい。黒猿、とはなんなのか。読み方はコクエンなのか、くろざる、なのか。
「ここも、あんま安全なエリアじゃないんで、さっさと移動した方がいいと思うっす」
「……もしかしてこのセカイ、安全なエリア殆どないんじゃないのお?」
大空がげんなりしたように言う。
「だってさ、安全地帯少ない方が、さっさとゲームの決着がつくじゃん?それに、大多数を巻き込んで苦しめることもできそうだよねー。映くんの話聞く限り、相手の四木乱汰って奴はクソオブクソな外道みたいだし?わざとほとんど危ないエリアにしてさあ、一人でも多く犠牲が出るように仕向けてる可能性がなきにしもあらず」
ああ、まったく筋が通ってしまっているのが辛い。映がぶるり、と体を震わせた。やはり、ここは彼にとっても少々寒いようだ。
「確かに、ここは嫌な空気ね。しかも……多分このエリアにも、四木のやつはいないわ」
「……あの、最終的に遭遇できんのかこれ?ものすごーく膨大なエリア数があって、神がかり的に運が良くなけりゃ同時に同じエリアに行くこともできないような気がするんだけど」
「流石に、ある程度互いは引き寄せ合う設定になってると思うんだけどね。ゲームが延々に終わらない仕様ってのは、あちらも望んでいないでしょうし」
「だといいけどよ……」
それに、この様子だと巻き込まれた他の生徒も心配だ。ムカつく野郎とはいえ、泰輔や駆が死んでも寝覚めが悪いし、他のクラスメートや先生だって巻き込まれていない保証はどこにもない。
出来る限り早く解決しないと、それこそ死人が出る可能性も否めないだろう。
「私のクラスのみんなも心配」
映が長い睫毛を伏せて言う。
「多分、最低でも数人は巻き込まれてるわ。だってすぐ近くで授業やってたんですもの」
「つか、話聞いた感じ四木乱汰は、自分の授業サボって突撃してきたっぽいもんな」
「そんなもの、もうどうでもよかったんじゃないかしら。そもそも、この件が発覚すれば彼は確実に退学。良くても無期限停学。そして、死人が多数出れば……極刑もあり得る。勝負に勝っても負けても、彼自身命懸けであるのは間違いないのよ。やぶれかぶれと言ってもいいけれど」
極刑。
それが何を意味するかわからないほどミノルも子供ではない。
「……逮捕じゃなくて、いきなり極刑なのか?裁判もなしに?」
自分は、令和日本の人間だ。法治国家を知る者として、どうしてもそこは疑問を持たずにはいられない。
もちろん、四木乱汰がやっていることは絶対許されるべきことではないだろう。しかし、逮捕されて死刑になるのと、法によらずに殺されるのとではまったく意味合いが違うのだ。
「言いたいことはわかりますよ、陛下」
フォローしてきたのは、静だった。
「実際、本当はあってはならないことです。本来ならば誰しも生きる権利はあるはずですし……正義か悪かなんて、特定個人の考えで決めていいことでもありませんから。ましてや、人の命に係わるものなら尚更に」
「それでも、やらなきゃいけないってか」
「ご存知の通り、既にこの国は……いえ、世界は再び、人間VS魔族の構図が出来上がりかけている。戦争の一歩手前、というくらいにピリピリしてしまっているんです。何か一つ、小さな火の粉が降ればそれが一気に大火事になりかねないほどの」
「大火事……」
そこで思い出したのは、彼が語ってくれた魔王ルカインの物語だ。数百年前、何故ルカインは魔王として立ち上がらなければならなかったのか。
もともとは、アメリスト連邦の一部の都市で頻繁に起きた火災が原因だった。空気が乾燥していたとか、風向きが悪かったとか、とにかく偶然悪い条件が重なって結果大規模火災に発展したと。
ところが、それが運悪くグレードの高い政府高官たちの住むエリアだったせいで、テロが疑われてしまった。魔族が炎魔法でテロを起こしたのだと誰かが噂を流し、過剰で偏屈な正義感にかられた人間達が暴走を始めたのだと。
それはさながら、ミノルの世界でよく聞いた、反ワクチンやらなんやらの陰謀論にとてもよく似ている。自分だけが真実を知っている、目覚めた人間だ、悪は罰されなければいけないと思い込んでしまった人間たちを止めるのは極めて難しい。
そして、暴徒たちが魔族の集落を襲い、やむなくそれを魔族達が返り討ちにしたことで大きな大きな戦争に発展してしまった、と。
「次の魔王が決まっていない今、戦争が始まってしまっては困るんです。もちろん、魔王が決まったとて戦争なんて起きないにこしたことはないんですが」
静は悲しそうに首を横に振った。
「人間たちに『魔族は人間の敵だ、野蛮な連中だ』と誤解させかねないような社会不適合者には、消えてもらうしかないんですよ。同時に、魔族が魔族を守るためにあまりにも大きな障害となりうる人間も。法律で裁こうとすれば人間たちにその存在が知られることになる。今回の四木乱汰がやったこと、過去の余罪も含めて全て人間達に明るみになったら……どうなりますか?」
「……なるほど、それが戦争のきっかけを作りかねねえ、と」
「今はまだ、乱汰の危害はほぼ魔族にしか向いていません。彼が通っていた学校も、ほとんど魔族ばかりが通う学校でしたしね。でも……彼がやったことが明るみに出れば人間達も恐れるし、過剰な正義感を持つ人間たちを煽る材料になるのは充分です。彼一人のせいで、魔族全体が暴力的な性犯罪者、みたいなレッテルを貼られて戦争の火種になったら目も当てられない。世論とは、そういうものなんです」
本当は、彼も納得していることではないのだろう。
そういえば静が影で、ミノルを守るための露払いをしてくれているらしい、という話は聞いている。ひょっとしたら、その手を汚すようなこともあったのかもしれない。
ここは、魔王学園アルカディア。あくまで、魔王の候補者と、魔王に尽くすことがでくる立派な兵隊を育てる学校。
しかし同時に、戦争を起こす前の防波堤でもあり、牢獄でもある。それを忘れてはいけない、ということなのだろう。
「納得しなくていいんですよ」
彼は、寂しそうに笑って言った。
「それが普通です。少なくとも現世のあなたは……前世のように、その手を血で染める必要はないのですから」
「静……」
あくまで、ミノルの仕事は前魔王として、次の魔王を指名すること。そして力を引き継ぐことだというのはわかっている。それでも、彼の言葉を聞いていると時々思ってしまうのだ。
自分だけ、茅の外でいいのかと。
だって静も大空も社も、たとえ継承者に選ばれなくても――魔王軍の一員として、戦争に駆り出されるかもしれない人間なのだ。そうなったら、彼らは命がけで戦わなければいけない。自分はただ一人、その時にはもう令和日本の世界に帰ってぬくぬくと過ごして――果たして本当にそれでいいのだろうか。
「……まあ、ようするに。こんなこと起こした時点で、あいつは死ぬほど馬鹿ってことなんだよねえ」
重たくなりかけた空気を、大空が強引に断ち切った。
「実はゲームを通じて、不慮の事故で人が死ぬくらいなら罰はあっても極刑ってほどにはならないわけ。それも踏まえて訓練だって学園側はみなしてるから。でもまあ、今回のケースはアウトオブアウトっていうか?ほんと、下半身に忠実すぎる馬鹿はこれだからダメなんだよなー」
「お、おう。はっきり言うな」
「そうそう。そんなバチクソ外道のためなんぞに、ミノルくんが心を痛める必要なんかないわけ。誰でも生きる権利はあるとか言いたいところだけど実際には、生きていてもらっちゃ困る人間もこの世には存在すると思うんだよね。生きてるだけで、他人を壊して、世界を壊すようなやつ。そういうやつには、死んでもらうしかないんだよ。残念ながら」
「……うん」
理想だけでは、生きていけない。
徹底的に再教育して更生できるならいいが、それができる人間ばかりではないのも事実なのだから。
「さて、暗い話は終わり」
大空は、目の前の通路をびしっと指さして言った。
自分達が今立っているのは、幅四メートル、高さ三メートルほどの洞窟の通路のどんづまりだ。後ろにあったはずのドアは消失しているし、ここで何かに襲われたら結構大変ではある。
「いつまでもこの袋小路に立っているのもやばいと思うんで、歩きながら話さない?早く次のエリアへの出口も見つけないといけないしね」
「そ、そうっすね。そうでした」
「悪い、俺のせいで話脱線させて」
「私もごめんなさいね」
「いいよいいよ、ミノルくんも映くんも。気にしない気にしない」
大空に言われて、謝罪を口にする社、ミノル、映。静も小さく「すみませんでした」と言っている。
――謝罪は口にしたが、ミノルとしては有意義な話だった。むしろ、きちんとこういう話はしておくべきだ、と思う。
今日できることは、今日しておいた方がいい。きっとこの場所では、同じ明日が来るなんて保証はどこにもないのだから。
「……そうっすね。このエリアについて、皆さんにも情報共有しておくっす」
歩きだしたところで、社が口を開いた。
「ここ……『№223 黒猿の洞窟』は端的に言って、敵が多いエリアっす。だからみなさん、警戒を怠らないでくださいっす」